今西村(読み)いまにしむら

日本歴史地名大系 「今西村」の解説

今西村
いまにしむら

[現在地名]湖北町今西

延勝寺えんしようじ村の北西に位置。湖岸は戦国期頃には湊として機能しており、江戸時代には「ひをが崎」と称された(輿地志略)。寛正二年(一四六一)七月、菅浦すがうら(現伊香郡西浅井町)を近隣の諸庄園の者が攻めたときには「いまにし」もこれに加わっており、惣村としてのまとまりをうかがうことができる。天文一〇年(一五四一)六月の「北郡錯乱」のときには浅井氏が当地に舟をつねに待避させており、菅浦惣庄置文案には「今西浦ニおき申候あしかる舟浅見新右衛門殿奉行」とみえる。


今西村
いまにしむら

[現在地名]坂戸市今西

堀込ほりごめ村の北にあり、東は金田かねだ村、北は越辺おつぺ川を挟んで比企郡石坂いしざか(現鳩山町)入間いるま入西につさい領に属した(風土記稿)。田園簿では田六七石余・畑三二石余、旗本石野領。延享三年(一七四六)から天保三年(一八三二)まで三卿の田安領(「田安領知村高記」葛生家文書など)。同一五年には旗本岡本領で(「辰皆済目録写」松本家文書)以後変わらない。寛文二年(一六六二)検地帳(同文書)によると田六町四反余・畑二町六反余・屋敷地二反弱。元文五年(一七四〇)の村明細帳(松本家文書)によれば家数一二・人数七四。


今西村
いまにしむら

[現在地名]えびの市今西

大明司だいみようじ村の南、川内せんだい川南岸の河岸段丘上にある。飯野いいの郷に属する。北東の前田まえだ村から南の上江うわえ村に白鳥しらとり権現へと向かう往還が通り、また原田はらだ村飯野地頭館から南下して当村―池島いけじま村―栗下くりした村を経てひがし・西の長江浦ながえうらから馬関田まんがた郷の岡元おかもとを通って大隅国吉松よしまつ(現鹿児島県吉松町)に至る吉田よしだ筋の通過点でもある。当村には真幸まさき院の一宮香取神社があって交通上重要な位置を占めた。寛文四年(一六六四)の諸県郡村高辻帳に村名がみえ、表高一七〇石余。「三州御治世要覧」では内高四三七石余。享保一九年(一七三四)当村の一部(石高不明)を含む島津綱貴側室信証院私高の七ヵ村計二〇〇石が黄檗宗元持山門首寿国じゆこく(現鹿児島市)へ寺領として寄進され、寺社方支配となった(「知行目録」旧記雑録など)


今西村
いまにしむら

[現在地名]関金町今西

泰久寺たいきゆうじ村の西に位置し、集落の北東で小鴨おがも川とその支流清水しみず川が合流する。大山道(川床道)が通る。拝領高は三三〇石余、本免は五ツ八分。藪役銀一七匁四分を課されていた(藩史)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高三〇〇石余、竈数四〇余。幕末の六郡郷村生高竈付では生高四五二石余、竈数五四。泰久寺大久たいきゆう寺の過去帳(同寺蔵)によれば、宝永七年(一七一〇)閏八月一一日地震が起き当村金谷かなたにで一二名が死んだ。「控帳」元禄八年(一六九五)五月二日条によれば当村の者二〇人が大山領「たはこや鉄山」へ引移っている。


今西村
いまにしむら

[現在地名]能勢町今西

森上もりがみ村の北西に位置し、山田やまだ川が南東流する。古代は枳根きね(和名抄)に属したと思われる。式内社岐尼きね神社が鎮座していたが、同社は現在森上にある。中世は枳根庄の地。北東の奥畑おくばた山はしろ山ともいい、山頂に今西城跡がある。きねの城ともいい、天文年間(一五三二―五五)森本清左衛門尉景久が築いたという(大阪府全志)。村高は文禄三年(一五九四)検地では一八九石余(乾家文書)。領主の変遷は大里おおざと村に同じ。延宝七年(一六七九)小物成場検地帳(今西区有文書)では、惣山柴山・金谷草山村分、しげり草山(山辺村との立会牛馬飼場)の計一二町一反余、山手銀三〇匁。


今西村
いまにしむら

[現在地名]野迫川村大字北今西きたいまにし

川原樋かわらび川北岸、たいら村の西方に立地。正平二二年(一三六七)の北俣頼房等連署請文(高野山文書)に「今西頼右」の人名がみえる。

十二村じゆうにそん組に属する。慶長郷帳では十二村二〇〇石のうちに含まれ、幕府領延宝検地により村高は一六・八三六石となった。延宝七年(一六七九)の大和国吉野郡十二村之内今西村検地帳によると、反合二町三反一畝一〇歩、分米一六・八三六石。山手銀一五匁、除地に勝手大明神宮山(一町八反)、阿弥陀堂、寿楽じゆらく院などがあった。


今西村
いまにしむら

[現在地名]美里町今西

桂瀬かつらせ村の東南にあり、貴志きし川の両側を占めるが、北岸の村域はわずかである。しかし集落はそこに集まる。南は長峰ながみね山脈の黒松くろまつ(六四四・七メートル)の北斜面を含み、その山腹に開かれた小名新田しんでんも村域である。この地には村から道が通じ、新田辻しんでんつじを越えて有田郡遠井とい(現清水町)に至る。近世の高野街道はこの付近では貴志川沿いを通らず曲流部を短絡したため、当村内は通らない。

室町時代の年不詳の諸供領臈次番付書(又続宝簡集)に「百四十一臈 猿川庄河南字小原卅歩 平さ衛門入道円性寄進、作人今西村人」とあるのが当地とも考えられる。


今西村
いまにしむら

[現在地名]松任市今平町いまひらまち

乙丸おとまる村の東に位置し、北は同村飛地を挟んで二口ふたくち村、南は坊丸ぼうまる村。正保郷帳では木津こうづ村と連記されていて二村分の高一千七九三石余、田方一一三町四反余・畑方六町一反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印は別々に出されており、当村の高一三九石、免五ツ八歩、小物成はなし(三箇国高物成帳)


今西村
いまにしむら

[現在地名]十津川村大字今西

玉垣内たまがいと村の北方、行仙ぎようせん(一〇九一・三メートル)の西麓にある村。十津川郷のうち。寛永郷帳の村高一一・六石、幕府領。元禄郷帳では村高一〇・四石となっている。安政四年(一八五七)の産物取調帳(十津川宝蔵文書)に杉角尺〆六五〇本、檜角尺〆四〇本、椴栂松尺〆六〇本、煙草四八〇貫目、椶櫚皮二千枚、楮四八貫目、割菜一〇〇貫目、椎茸一五貫目とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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