済生学舎(読み)さいせいがくしゃ

改訂新版 世界大百科事典 「済生学舎」の意味・わかりやすい解説

済生学舎 (さいせいがくしゃ)

医師の長谷川泰(はせがわたい)により1876年に創立された民間の医学校。当時医師になるには大学卒などを除いては医術開業試験を受けねばならなかったが,いわばその受験のための学校であった。当初本郷区元町,のち湯島に移り付属病院(蘇門病院)も設けられた。講師は主として東大教授助教授助手などがあたり,大量の学生を相手にして,試験を課さないなど独特の教授法をとったが,これには批判もあった。女子の入学許し吉岡弥生(よしおかやよい)も同校出身の一人だが,のち女子学生を締めだし,それがもとで吉岡が東京女医学校を創始するところとなった。3年制であったが,のちには4年制となる。閉校までに2万1494人が入学し,うち9628人が医師になり,明治期の開業医中の最大勢力であった。卒後教育的な顕微鏡実施演習科,外科的実習演習科なども設けた。1903年,専門学校令の公布により大学への昇格を申請したが,許可されなかったため同年突然閉校された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「済生学舎」の意味・わかりやすい解説

済生学舎
さいせいがくしゃ

明治時代を代表する私立医学校。1876年(明治9)、元東京医学校校長心得(こころえ)、長谷川泰(はせがわたい)によって、東京・本郷元町に創設された。73年の慶応義塾医学所と並んで、西洋近代医学によるわが国最初期の私立医学校である。ドイツの大学制度を模して、入学の時期、資格を問わない自由就学制度をとり、廃校に至る28年間に入学者は2万1000人余、医術開業試験合格者9628人であったという。82年、本郷湯島四丁目に新築移転、翌年には付属病院も設けて、東京医学専門学校済生学舎と称した。1903年(明治36)専門学校令公布にあたり、文部省は基本金の不足をいい、長谷川は文部当局の圧迫といったが、「私立医科大学と称することを許されず」廃校した。

[神谷昭典]

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世界大百科事典(旧版)内の済生学舎の言及

【長谷川泰】より

…明治期の医師。済生学舎を創始して医学教育にあたり,衛生行政に関与した。越後国長岡に生まれ,佐倉の順天堂で佐藤尚中について学ぶ。…

【吉岡弥生】より

…静岡県生れ。済生学舎を卒業し,明治中期の女医の一人として開業したが,済生学舎がその後女子の入学を拒否したことから後進を教育することを決意し,1900年に東京女医学校を創始した。これは東京女子医学専門学校を経て東京女子医科大学に至り,自由主義圏では数少ない女子医大として発展した。…

※「済生学舎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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