長谷川泰(読み)はせがわたい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「長谷川泰」の意味・わかりやすい解説

長谷川泰
はせがわたい
(1842―1912)

医学者。天保(てんぽう)13年6月越後(えちご)国(新潟県)長岡に、漢医長谷川宗斉の子として生まれる。1862年(文久2)佐倉佐藤尚中(しょうちゅう)の門に入り、のち松本良順に従って医学所に学んだ。1869年(明治2)大学東校(東京大学医学部の前身)少助教、翌1870年中助教、のちに次長になったが、総長石黒忠悳(ただのり)とあわず、去って1876年本郷に済生学舎をおこし、医学生の養成に努めた。私立医師養成機関として入学者はすこぶる多く、済生学舎に学んで医師になったものは9600人に及んだ。校長のかたわら、1890年衆議院議員に当選し、内務省にも出仕して、1898年には衛生局長に就任した。1902年(明治35)専門学校令の発布にあたって、済生学舎を医科大学に昇格させようと努力したがならず、突如として廃校して物議を醸した。明治45年3月11日大腸狭窄(きょうさく)症で死没

[深瀬泰旦]

『山口梧郎編『長谷川泰先生全集』全1巻(1939・長谷川泰遺稿集刊行会)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「長谷川泰」の解説

長谷川 泰
ハセガワ タイ


肩書
衆院議員,済生学舎創立者

別名
幼名=泰一郎 号=蘇山 柳塘

生年月日
天保13年6月(1842年)

出生地
越後国福井村(新潟県)

経歴
父は漢方医。江戸に出て、坪井芳洲や佐倉順天堂の佐藤尚中に西洋医学を学ぶ。また、江戸の松本良順の塾に入り、幕府の医学所にも学んだ。慶応3年帰郷して長岡藩に仕え、北越戦争の藩医として従軍。明治2年大学東校開設とともに少助教兼中寮長となり、のち文部大助教。東京医学校、長崎医学校の校長を歴任。7年東京府病院長となり、9年東京本郷に私立の医学校・済生学舎を創立して医学生を養成。閉校までの20数年間に9600余人の医師を送り出した。この間、11年内務省御用掛となり、長与専斎を助けて衛生行政の根幹を確立した。20年国政医学会を創立、21年内務省衛生局長に昇任。一方、23年衆院議員に当選し3期務める。27年以後は教育に専心したが、36年の専門学校令を、私学を拘束するものとして学舎を閉じた。著訳書に「脚気新説」「内科要説」がある。

没年月日
明治45年3月11日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「長谷川泰」の解説

長谷川 泰
ハセガワ タイ

明治期の医学教育家,政治家,医事行政官 済生学舎創立者;衆院議員。



生年
天保13年6月(1842年)

没年
明治45(1912)年3月11日

出生地
越後国福井村(新潟県)

別名
幼名=泰一郎,号=蘇山,柳塘

経歴
父は漢方医。江戸に出て、坪井芳洲や佐倉順天堂の佐藤尚中に西洋医学を学ぶ。また、江戸の松本良順の塾に入り、幕府の医学所にも学んだ。慶応3年帰郷して長岡藩に仕え、北越戦争の藩医として従軍。明治2年大学東校開設とともに少助教兼中寮長となり、のち文部大助教。東京医学校、長崎医学校の校長を歴任。7年東京府病院長となり、9年東京本郷に私立の医学校・済生学舎を創立して医学生を養成。閉校までの20数年間に9600余人の医師を送り出した。この間、11年内務省御用掛となり、長与専斎を助けて衛生行政の根幹を確立した。20年国政医学会を創立、21年内務省衛生局長に昇任。一方、23年衆院議員に当選し3期務める。27年以後は教育に専心したが、36年の専門学校令を、私学を拘束するものとして学舎を閉じた。著訳書に「脚気新説」「内科要説」がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「長谷川泰」の意味・わかりやすい解説

長谷川泰 (はせがわたい)
生没年:1842-1912(天保13-大正1)

明治期の医師。済生学舎を創始して医学教育にあたり,衛生行政に関与した。越後国長岡に生まれ,佐倉の順天堂で佐藤尚中について学ぶ。帰郷し北越戦争に長岡藩藩医として従軍。1869年(明治2),大学東校開校にあたり,大学少助教(のち文部大助教)となり相良知安(さがらともやす)らを補佐,日本医学教育の確立に寄与した。72年,第一大学区医学校校長,74年長崎医学校校長を経て,76年に私立の医学校済生学舎を創始,1900年の廃校までに9600人余の医師を世に送りだした。1878年,内務省御用となり,長与専斎を助けて衛生行政の基礎を定め,98年には内務省衛生局長となる。衆議院議員歴任。1903年,専門学校令により大学昇格をはかったが許可されず,同年済生学舎を突然閉校とした。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「長谷川泰」の解説

長谷川泰

没年:明治45.3.11(1912)
生年:天保13.6(1842)
明治期の医学教育者,政治家,医事行政官。越後国(新潟県)福井村生まれ。名は初め泰一郎,明治になって泰と改称。下総国佐倉(千葉県)で順天堂,江戸で松本良順(順)に蘭学を学び,明治になって大学東校(東大)の教官,長崎医学校(長崎大)の校長を歴任した。明治9(1876)年に私立医学校済生学舎を創設,36年に廃校。その間に2万1千余人が入学,約9600人の医師を養成した。またこの間,衆院議員を第1回帝国議会から3期務め,内務省の衛生局長,中央衛生委員などの医療行政の役職につき,西洋衛生思想の普及をはかるとともに,漢方排斥の急先鋒に立った。36年以降は隠棲生活に徹した。

(酒井シヅ)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長谷川泰」の解説

長谷川泰 はせがわ-たい

1842-1912 明治時代の医学者,政治家。
天保(てんぽう)13年6月生まれ。順天堂で佐藤尚中(しょうちゅう),医学所で松本順にまなぶ。明治9年医学校済生学舎を創立し,36年の廃校までにおおくの医師を養成。内務省では長与専斎をたすけて衛生行政の基礎をきずき,のち衛生局長をつとめた。23年衆議院議員(当選3回,弥生倶楽部(クラブ))。明治45年3月11日死去。71歳。越後(えちご)(新潟県)出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長谷川泰」の意味・わかりやすい解説

長谷川泰
はせがわたい

[生]天保13(1842)
[没]1912
医学者。 1876年に済生学舎をつくって洋方医の短期養成に努めた。 1903年に廃校したが,その間に同舎で養成した医師は 9600人に達したといわれる。 1890年に第1回普通選挙で代議士に当選,日本の医事衛生に貢献したところは大きい。東京府立病院院長,学校衛生顧問会議長などを歴任。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の長谷川泰の言及

【済生学舎】より

…医師の長谷川泰(はせがわたい)により1876年に創立された民間の医学校。当時医師になるには大学卒などを除いては医術開業試験を受けねばならなかったが,いわばその受験のための学校であった。…

※「長谷川泰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android