日本大百科全書(ニッポニカ) 「鹿野藩」の意味・わかりやすい解説
鹿野藩
しかのはん
因幡(いなば)国(鳥取県)気多(けた)郡鹿野に置かれた小藩。1581年(天正9)、尼子氏の旧臣亀井茲矩(これのり)は豊臣(とよとみ)秀吉の鳥取城攻めに従い鹿野に封ぜられ、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、加増され、気多・高草(たかくさ)2郡3万8000石を与えられた。1617年(元和3)、池田光政(みつまさ)の因幡・伯耆(ほうき)両国移封に伴い亀井氏は石見(いわみ)国(島根県)津和野(つわの)に移り、鹿野藩は消滅する。1632年(寛永9)、池田光仲が鳥取城主として因・伯に入り、1658年(万治1)、光仲の二男仲澄(なかずみ)が新田2万5000石を分知され分家をたて、東館(ひがしやかた)・三田(みた)家といった。1868年(明治1)12月、東館を鹿野藩と称したが、新政府はこれを公認しなかった。
[福井淳人]
『『鳥取県史』全18巻(1969~82・鳥取県)』▽『山根幸恵著『亀井朱印船私考』(1955・鳥取週報社)』▽『徳永職男著『因伯史考』(1975・徳永職男論文集刊行会)』