吉田博(読み)よしだひろし

百科事典マイペディア 「吉田博」の意味・わかりやすい解説

吉田博【よしだひろし】

洋画家。久留米生れ。1893年京都に出て田村宗立に学んだのち,翌年上京して小山正太郎の不同舎に入った。欧米旅行後,太平洋画会創立参加。のち文展帝展の審査員,晩年は太平洋画会長。油彩水彩でおもに風景画を描き,木版画も残している。
→関連項目明治美術会

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世界大百科事典(旧版)内の吉田博の言及

【明治・大正時代美術】より

…これらの中では,《天平の面影》(1902)や《蝶》(1904)を描いた藤島武二と,彼の影響を受けて《海の幸》(1904)や《わだつみのいろこの宮》(1907)のように詩情豊かな浪漫的な作風をうち出した青木繁が傑出している。 明治美術会にも,欧米に学んだ中村不折,満谷(みつたに)国四郎(1874‐1936),吉田博(1876‐1950),鹿子木孟郎(かのこぎたけしろう)(1874‐1941),中川八郎(1877‐1922),河合新蔵(1867‐1936),丸山晩霞(1867‐1942),大下藤次郎などが現れて,1901年太平洋画会を興し,白馬会に対抗した。しかし07年文部省美術展覧会(文展)が設立されると,黒田のアカデミックな写実に印象派の色彩を加えた明るい外光主義の画風,すなわち美術学校と白馬会の画風が,日本のアカデミズムとして洋画界を支配するようになっていった。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」