文芸評論家、詩人、平和主義運動家。本名は門太郎。小田原の唐人町の藩医(祖父)の家に明治の最初の年の12月29日に生まれる。藩が新政府側でなかったので、父は単身上京して新政府の昌平(しょうへい)学校に入学、のち小役人として遍歴。透谷は12歳のとき上京、一家は数寄屋(すきや)橋近くに移り、母(気性の激しい女性だったという)はたばこ屋を開く。近くの泰明(たいめい)小学校を卒業する前後から、正岡子規(しき)・田岡嶺雲(れいうん)ら当時の多くの少年と同じく自由民権の思潮と運動に動かされ、熱中して弾圧激化のなかでかえってその意志を固めた。1883年(明治16)には一時神奈川県議会臨時書記をしたが、その後大矢蒼海(おおやそうかい)ら三多摩の民権壮士を知って、ともに民権のため活動した。その間、早稲田(わせだ)大学政治科に一時在籍、また民権グループの研究会に参加している。
1885年5月、左派民権指導者大井憲太郎らの運動の末期的な大阪事件の際、大矢から資金調達の強盗計画へ参加を求められたが、手段を選ばぬそのやり方にはついてゆけず、頭を剃(そ)って離脱を請い、旅に出た。ユゴーのような政治小説作者たらんとしたり、生活のため商業を試みて失敗したりしているうちに、三多摩の自由党代議士石坂昌孝(まさたか)の娘で3歳上の才媛(さいえん)石坂美那子(みなこ)との、明治期には異例の激しい恋を経験し、同時にキリスト教入信。88年結婚。その翌年、冒険的な叙事詩『楚囚之詩(そしゅうのし)』を自費出版したが自信を失って破棄し、91年劇詩『蓬莱曲(ほうらいきょく)』を改めて刊行。どちらも評判にならなかったが、現在ではその先駆的な思想上また形式上の達成と試みがきわめて高く評価されている。のち彼は哀切な叙情詩を書いて、島崎藤村(とうそん)『若菜集』での新体詩成熟に道を開いた。『楚囚之詩』の年から、キリスト教中でもっとも社会的自覚の強いクェーカー派の翻訳者・通訳者となり、やがてその派の加藤万治(かずはる)らと日本平和会を結成、機関誌『平和』(全12冊、1892~93)は日本近代最初の反戦平和運動機関誌となったが、1人で編集にあたった透谷は、巻頭から巻末まで署名・無署名で多くの文を書いて奮闘した。92年キリスト教女性教養誌『女学雑誌』に書いた『厭世(えんせい)詩家と女性』で文芸評論家として注目され、短いが灼熱(しゃくねつ)した文学思想家・批評家としての時期が始まる。
明治20年代前半の文壇を支配していたのは、尾崎紅葉(こうよう)らの風俗的写実と人情意識、また幸田露伴(ろはん)らの東洋的達観や念力の理想、これらだったが、透谷は「所謂(いはゆる)写実派なるものは、客観的に内部の生命を観察すべきものなり」「所謂理想派なるものは、主観的に内部の生命を観察すべきものなり」として、根底的な批判に進み出た。この「内部生命」とは、彼の『内部生命論』(1893)などによって示されているように、明治社会の世俗的な権威や拘束や既成の観念や習俗などの支配を、すべて外的なものとして退け、内面性においての人間の同質と普遍的な平等とを確認するとともに、共通に潜められている人間的な自由への要求を引き出してきて、近代的人間の明瞭(めいりょう)な自覚を提示するものとなった。1887年(明治20)の二葉亭四迷(ふたばていしめい)『浮雲(うきぐも)』以来の日本近代文学は、これによって初めて、近代文学の核心たる近代的人間の自覚とその要求とを、理論的に明らかにした。山路(やまじ)愛山の民友社的功利主義の文学論に対する鮮やかな批判(「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」1893)、そのころ低俗として全否定されかけていた江戸期の町人文学に対する共感を込めた深い理解と厳しい批判を示し、また同人誌『文学界』(1893創刊)で島崎藤村ら青年文学者の先頭にたって、樋口一葉(ひぐちいちよう)、泉鏡花(きょうか)、川上眉山(びざん)らの登場を準備し、木下尚江(なおえ)、内田魯庵(ろあん)を力づけるなど、明治浪漫(ろうまん)主義文芸思潮の前衛として活動した。
しかし文芸評論家が評論で生計をたてることは当時としては絶望的に困難であった。透谷はいろいろとあがいたが、疲労と貧乏でそううつ病ふうになり、明治27年5月16日、東京芝公園地内の自宅で、首をくくって死んだ。25歳であった。
[小田切秀雄]
『『透谷全集』全3巻(1950~55・岩波書店)』▽『色川大吉著『明治精神史』(1964・黄河書院/新編・1973・中央公論社/講談社学術文庫)』▽『平岡敏夫著『北村透谷研究』正続(1967、71・有精堂出版)』▽『小田切秀雄著『増補版 北村透谷』(1979・八木書店)』
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明治期の詩人,評論家。神奈川県生れ。本名門太郎。別名蟬羽,脱蟬子。1881年12歳のとき,東京数寄屋橋近くに移住する。このころ,自由民権運動は最高潮を迎え,政治への野心にめざめた透谷は,83年から2,3年は三多摩地方の民権運動の青年グループと接触をもつ。しかし,85年に,自由党左派の〈朝鮮革命計画〉(大阪事件)の行動隊に参加を求められて,運動から離脱する。この間,84年に東京専門学校政治経済学科に入学。また,神奈川の民権家石坂昌孝の長女ミナと知り合い,運動離脱後に恋愛,88年に結婚する。ミナとの恋愛は,透谷にキリスト教信仰への道を開く。これらの民権運動の経験,離脱後の懊悩と漂泊,そして激しい恋愛とキリスト教信仰における心の葛藤は,透谷の詩や文学の革命的ロマンティシズムを,著しく内面化した。89年に,日本最初の長編叙事詩《楚囚之詩(そしゆうのし)》を,91年に世界観的な構想をもった劇詩《蓬萊曲》を書く。92年のエッセー《厭世詩家と女性》に見られる大胆な恋愛観は,当時の若い知識人に大きな衝撃を与えた。また,93年《文学界》創刊。その誌上に発表された《人生に相渉るとは何の謂ぞ》から《内部生命論》にいたる,山路愛山との〈人生相渉論争〉は,日本近代文学の根本にかかわる重要な論争であった。彼は日本平和会機関誌《平和》の編集にも当たった。晩年の抒情詩は,島崎藤村の《若菜集》を直接用意するものである。94年25歳で自殺した。
執筆者:北川 透
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(及川茂)
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1868.11.16~94.5.16
明治前期の詩人・評論家。本名門太郎。神奈川県出身。東京専門学校中退。自由民権運動に加わり大阪事件への参加を求められたが,煩悶の末,頭を剃って運動から離脱。その後キリスト教に入信,文学へ移って詩や評論などで活躍した。1893年(明治26)島崎藤村らと「文学界」を創刊,初期浪漫主義運動の指導的役割をはたし,一方プロテスタント各派と交流して反戦平和運動を展開した。著作に初期の劇詩と「厭世詩家と女性」「内部生命論」「人生に相渉るとは何の謂ぞ」などの評論があり,その基調は実世界に対して想世界・内部生命・他界などの観念を対置させることで,現実社会の止揚をはかろうとするものであった。山路愛山との人生相渉(そうしょう)論争は有名。「透谷全集」全3巻。
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…エマソン思想がたどったこの道程には,南北戦争という試練を経て資本主義体制を固めていくアメリカ社会の歴史が色濃く投影している。日本では北村透谷の《ヱマルソン》(1894)以来エマソンはなじみ深い存在だが,いささか精神主義的な受容に傾きがちであり,いわゆる〈アメリカ・ルネサンス〉期を代表する思想家として,彼のダイナミックな精神のありかたに目を向けるべきだろう。【酒本 雅之】。…
…審理の結果大井,小林,新井は重懲役9年,以下それぞれ処罰された。女性として景山(福田)英子が参加したこと,三多摩の青年大矢正夫らに誘われて参加した北村透谷が中途で離脱したことなど,多様な側面を持っている。当時の自由民権思想には,日本の改革のみにとどまらず東アジア(清,朝鮮)全体の改革を志向する傾向があったが,その顕著な例といえる。…
…ただ宗教的リゴリズムをもって文芸の毒をきびしく批判した内村に対し,植村はむしろこれを宗教的・精神的啓蒙の具としたところに,民友社の蘇峰や愛山らにもつながる功利的文学観が見られる。これと相対立したのが《文学界》一派,特に北村透谷であり,愛山との間に文学の〈人生に相渉るとは何の謂ぞ〉という問題をめぐっていわゆる〈人生相渉論争〉が展開するが,その応酬のなかで透谷は文学の自律を説き,《内部生命論》(1893)を著した。 ここにも明らかなごとく明治20年代より盛んとなった自由主義神学,さらにはユニテリアンの思想は透谷をはじめ島崎藤村,国木田独歩らにも深い影響を与え,日本の土着の心性ともからんで一種の汎神論的思想や運命論的諦観へと彼らを傾斜させた。…
…幸田露伴《風流仏》や,矢崎嵯峨の舎の諸作品がこれに加わる。一方で北村透谷も1887年から二つ重ねの黒ゴマ点〈、、〉をセミコロンや感嘆符に使用した。《楚囚之詩》《蓬萊曲》などでは白ゴマ点の形式に合流した。…
…それらは,まもなくいわば〈小説の改良〉として,小説における写実主義に転化していったのであるが,そこにはまだ何かが欠けていた。北村透谷が〈写実も到底情熱を根底に置かざれば,写実の為に写実をなすの弊を免れ難し〉(《情熱》)と批判したように,そこには〈情熱〉,つまり外界を見るよりもむしろそれを拒絶するような一種の倒錯的な内面性が欠けていたのである。 一方,ロシア文学に通じており内面的であった二葉亭四迷は,いざ書こうとすると,《浮雲》がそうであるように,実質的に江戸文学(戯作)の文体・リズムに引きずられざるをえなかった。…
…北村透谷の評論。1893年《文学界》第5号に発表。…
…このリアリズム小説論は,二葉亭四迷〈小説総論〉(1886)の虚構理論に発展し,明治20年代にいたって坪内逍遥と森鷗外との論争などを通じて,文芸批評は時代の文学への指導的役割を確立する。だが文学が他の諸価値から自立した世界を形づくり,かつそれが文学者の内心の思いの表現であることを表明したのは北村透谷であり,透谷を含む《文学界》グループが西欧近代のロマン主義の移植を媒介として近代的な文学観を確立したとみられる。このような文学観は《文学界》に次いで明治のロマン主義思潮を代表する雑誌《明星》の人びとによって美意識の近代性を補強された。…
…彼はロマン主義の本質を,未知な世界や異常な事物などに対する好奇心などの伝奇性に求めているが,そこから森鷗外元祖説は導かれているのである。これに反対して,勝本清一郎は,〈正統なロマン主義〉の性格が,〈自由を求める精神,形式を破壊する精神,保守的勢力に対して革命的な精神,動的な自己主張の精神〉(〈《文学界》と浪曼主義〉)にあると考え,北村透谷の劇詩《楚囚之詩(そしゆうのし)》(1889)から《蓬萊曲(ほうらいきよく)》(1891)へ展開する過程に,その顕著なあらわれを見ている。この勝本の立場からは,佐藤春夫がロマン的作品として高く評価する鷗外青年期の訳詩集《於母影(おもかげ)》(1889)や小説《舞姫》(1890)は,その静的な形式美,節度,保守,妥協への希求,抒情への傾向において,酷評されざるをえない。…
※「北村透谷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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