洋画を中心とする美術団体。1901年(明治34)明治美術会解散後、同会の中堅作家であった吉田博(ひろし)、満谷(みつたに)国四郎、中川八郎、石川寅治(とらじ)、大下藤次郎(とうじろう)らによって結成され、翌年第1回展を開催。その後パリ留学より戻った中村不折(ふせつ)・鹿子木孟郎(かのこぎたけしろう)やベルリンから帰国した彫刻の新海竹太郎(しんかいたけたろう)らが参加、白馬(はくば)会と拮抗(きっこう)して明治後期の洋画壇に重きをなした。当初会の傾向は、形体を重視する古典的画風が主流となっており、その主要会員は文展開設後審査員となった者が多い。また1904年には洋画研究所を設立、坂本繁二郎(はんじろう)、中村彝(つね)など多くの俊英を輩出した。第二次世界大戦後は、47年(昭和22)に石川らが離脱して示現会(しげんかい)を創立、また54年に光陽会の派生をみるなど分裂をきたしたが、57年には太平洋美術会と改称。絵画、彫刻、版画のほかに染織部をも設け、毎年6月に公募展を行っている。
[佐伯英里子]
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…また留学中にロダンと接触をもった最も早い時期の日本人のひとりでもある。帰国後は黒田清輝の白馬会系に対立した太平洋画会系の中心的な画家として活躍。同会研究所で指導し,そこから中村彝(つね),万鉄五郎らの優れた画家が育った。…
…これらの中では,《天平の面影》(1902)や《蝶》(1904)を描いた藤島武二と,彼の影響を受けて《海の幸》(1904)や《わだつみのいろこの宮》(1907)のように詩情豊かな浪漫的な作風をうち出した青木繁が傑出している。 明治美術会にも,欧米に学んだ中村不折,満谷(みつたに)国四郎(1874‐1936),吉田博(1876‐1950),鹿子木孟郎(かのこぎたけしろう)(1874‐1941),中川八郎(1877‐1922),河合新蔵(1867‐1936),丸山晩霞(1867‐1942),大下藤次郎などが現れて,1901年太平洋画会を興し,白馬会に対抗した。しかし07年文部省美術展覧会(文展)が設立されると,黒田のアカデミックな写実に印象派の色彩を加えた明るい外光主義の画風,すなわち美術学校と白馬会の画風が,日本のアカデミズムとして洋画界を支配するようになっていった。…
※「太平洋画会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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