明治美術会(読み)メイジビジュツカイ

デジタル大辞泉 「明治美術会」の意味・読み・例文・類語

めいじ‐びじゅつかい〔メイヂビジュツクワイ〕【明治美術会】

日本最初の洋風美術団体。明治22年(1889)浅井忠小山正太郎らを中心創立白馬会設立・隆盛に伴い、旧派やに派とよばれて衰退し、同34年解散太平洋画会は、その後身。

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精選版 日本国語大辞典 「明治美術会」の意味・読み・例文・類語

めいじ‐びじゅつかいメイヂビジュツクヮイ【明治美術会】

  1. 美術団体。明治二二年(一八八九)浅井忠、小山正太郎らが結成した日本最初の洋画団体。画風は暗い色調写実主義白馬会の外光派に対し脂(やに)派と呼ばれた。同三四年解散。太平洋画会はその後身。

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百科事典マイペディア 「明治美術会」の意味・わかりやすい解説

明治美術会【めいじびじゅつかい】

明治時代の美術団体。当時の国粋主義的風潮に抗して,浅井忠松岡寿などの洋画家と彫刻家長沼守敬らが東大総長渡辺洪基を会頭として1889年結成。展覧会を開くほか,講演会,討論会を催して洋風美術の啓蒙に努めた。のち,ヨーロッパから帰国した黒田清輝久米桂一郎らも参加したが,彼ら新派(紫派)は,印象主義以前の洋画を描いていた旧派(脂(やに)派)と対立し,1896年脱退して白馬会を創立。明治美術会は1901年解散したが,同時にその主要会員とヨーロッパから帰った吉田博満谷国四郎らが太平洋画会(1957年太平洋美術会と改称)を設立,フランスのアカデミックな画風を基調として白馬会と並立した。同会は,1904年に太平洋画会研究所(1929年太平洋美術学校と改称)を設け,後進を指導。
→関連項目川村清雄小山正太郎原田直次郎藤島武二山本芳翠

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改訂新版 世界大百科事典 「明治美術会」の意味・わかりやすい解説

明治美術会 (めいじびじゅつかい)

明治期の洋風美術団体。明治10年代には維新以来の急進的な欧化政策に対する反省,反動の気運が高まり,日本の伝統的美術の復興を旗じるしに,洋画排斥の世論が強まっていった。こうした国粋主義の運動に抗し団結を図ることを目的に,1889年浅井忠,小山正太郎,松岡寿,高橋源吉,本多錦吉郎,長沼守敬らが発起し,山本芳翠,川村清雄,曾山幸彦,原田直次郎,五姓田義松らが加わって結成された。会頭に帝国大学総長渡辺洪基が就任し,また後援者として行政家や知識人ら多数が名を連ねた。会は展覧会のほかに講演会を開催し,教場を設けて後進の指導に当たるなど,洋風美術の振興と普及に力を注いだ。90年の外山正一の講演〈日本絵画ノ未来〉をめぐる論争や,翌年の裸体画を描くことの可否についての討論は,文化史的にも興味のある事柄である。しかし会勢が盛んであったのは結成後しばらくの間で,黒田清輝を中心とする外光派との対立が激しくなるにつれ,停滞が深まった。96年に黒田らが退会して白馬会を結成すると頽勢はいよいよ覆いがたく,やがて内紛も生じて1901年に解散した。解散と同時に,中堅会員吉田博,中川八郎,満谷国四郎,丸山晩霞石川寅治,大下藤次郎らは太平洋画会を発足させた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「明治美術会」の意味・わかりやすい解説

明治美術会
めいじびじゅつかい

絵画を中心とした日本初の洋風美術団体。1889年(明治22)浅井忠(ちゅう)、川村清雄(きよお)、五姓田義松(ごせだよしまつ)、小山(こやま)正太郎、本多錦吉郎(きんきちろう)らを中心に、新帰朝の原田直次郎、松岡寿(ひさし)、山本芳翠(ほうすい)らを加えて結成、同年10月展覧会を開催した。創立の目的は、当時熾烈(しれつ)化した国粋主義による洋風美術排撃運動に対抗し、広く洋風美術の発展普及を促そうとするもので、絵画のほかに彫刻の長沼守敬(もりよし)なども加わり、後進の育成や講演会活動にも積極的に取り組んだ。会の傾向は、暗褐色のいわゆる脂(やに)色調を特色とする油絵が主流であったため、「脂派(やには)」と呼称された。しかし、明治20年代後半になると、同会を脱退した黒田清輝(せいき)の率いる白馬(はくば)会が急速に台頭し、紫(むらさき)派・新派とよばれたのに対し、旧派とよばれるようになってしだいに主導力を失い、1901年(明治34)には解散、同系の若手作家は新たに太平洋画会を結成していった。

[佐伯英里子]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「明治美術会」の意味・わかりやすい解説

明治美術会
めいじびじゅつかい

日本最初の洋画団体。 1889年浅井忠,小山正太郎,原田直次郎,松岡寿,山本芳翠,長沼守敬らが組織。さらに黒田清輝,久米桂一郎らの新帰朝者も参加,毎年展覧会を開き多くの名作を発表し,中村不折,岡田三郎助,和田英作らを輩出した。また外国作品の参考陳列,研究所の設置,討論会なども行い,洋画発展のために尽した。のち分裂して白馬会と対立,旧派または脂派 (やには) と呼ばれ,1901年に解散。 02年に旧会員らを中心に太平洋画会が結成され,白馬会とともに二大洋画団体となった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「明治美術会」の解説

明治美術会
めいじびじゅつかい

日本最初の洋画・西洋系彫刻の美術団体。1889年(明治22)浅井忠(ちゅう)・小山正太郎・長沼守敬(もりよし)らによって結成され,毎年展覧会と例会を開催した。当時の国粋主義的気運に対抗し,主要な洋画家の大部分が参加したが,やがて黒田清輝ら若手作家と旧会員が対立。黒田らは96年白馬会を結成して離脱する。1901年に明治美術会は解散し,中堅会員を中心に02年に太平洋画会が結成された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「明治美術会」の解説

明治美術会
めいじびじゅつかい

1889年,浅井忠・小山正太郎らが結成した日本最初の洋画団体(〜1901)
画風は暗い色調の写実主義で,脂 (やに) 派・旧派と呼ばれた。のち,黒田清輝・久米桂一郎らは脱退して白馬会を結成し対立。以後美術会は衰え,1901年解散後は太平洋画会へと受け継がれた。

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世界大百科事典(旧版)内の明治美術会の言及

【印象主義】より

…特に,明るい色彩の使用と光に対する強い関心は,アカデミズムを通しての折衷的印象主義ではあったが,日本では清新なものとして受け取られた。フランスの印象派の作品が紹介されたのは,93年の明治美術会展で,日本美術のフランスへの紹介者でまた西洋美術のコレクターであった林忠正(1853‐1906)のコレクションのなかにブーダン,シスレーなどの作品があった。しかし,それらはあまり大きな反響を呼ばず,むしろ黒田たちの折衷主義の方が迎えられたのである。…

【白馬会】より

…1896年黒田清輝,久米桂一郎を中心とする外光派の画家たちによって結成された。はじめ黒田らも明治美術会に参加していたが,芸術家の自由を標榜し感覚の解放を求める外光派の人たちにとって会の古い体質は耐えがたく,退会して新たな団体をつくることになったものである。黒田,久米のほか岩村透,山本芳翠,藤島武二,岡田三郎助,和田英作,小代(しようだい)為重,小林万吾,長原孝太郎,彫刻の菊地鋳太郎,佐野昭(あきら),版画の合田清らが加わった。…

【明治・大正時代美術】より

…また結城素明(1875‐1957),平福百穂,島崎柳塢(りゆうう)(1856‐1938)らは東京で无声会(むせいかい)を結成し(1900),西洋画の写生を研究して自然主義的な新しい日本画をもたらすことになる。
[明治美術会と白馬会]
 明治10年代の後半,洋画家たちは一時息をひそめたが,この間にヨーロッパに渡った山本芳翠(フランス),原田直次郎(ドイツ),松岡寿(イタリア)らが帰国し,洋画界の新しい活動力となる。彼らは1889年浅井忠,小山正太郎,本多錦吉郎(きんきちろう)(1850‐1921。…

※「明治美術会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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