朽網郷(読み)くたみごう

日本歴史地名大系 「朽網郷」の解説

朽網郷
くたみごう

豊後国風土記直入郡条にみえる球覃くたみ郷を継承する中世の郷。久多見とも書く。現直入郡久住くじゆう(白丹と久住を除く)・直入町、現大分郡野津原のつはる今市いまいち庄内しようない阿蘇野あその一帯に比定される。文治年中(一一八五―九〇)宇佐宮太大工小山田貞遠が作成利用した宇佐宮仮殿地判指図(宇佐神宮蔵)に「朽網郷」とみえ、同宮仮殿造営の際、当郷に置路甃一丈・南楼西脇の釘貫二〇間・外殿一宇の西一間・三殿前の甃一丈一尺五寸などが割当てられている。内閣文庫本豊後国弘安田代注進状に直入郡一七〇町のうち「朽網郷四十町」とみえ、地頭は朽網兵衛尉泰親(法名善心)であった。内閣文庫本豊後国弘安図田帳では直入郡全体の領家を太宰府天満宮とする。正慶元年(一三三二)一月一一日の賀来社年中行事次第(柞原八幡宮文書)によれば、当郷は豊後一宮由原ゆすはら八幡宮(現大分市)の八月一六日の放生会還御に際しての神官饗膳に勤仕している。文安五年(一四四八)と推定される大鳥居氏所領注文(太宰府天満宮文書)に「朽網神役廿余貫、神馬二疋也、但近年信善時より三貫文、神馬一疋」とみえ、太宰府天満宮の神役を勤仕している。

なお江戸時代に編纂された「救民記」によれば、当郷と太宰府天満宮との関係は日向国法華嶽薬師(現宮崎県国富町法華岳寺)参詣の際、当地に立寄った菅原道真が逆さに挿した竹が根付いた跡地に天満宮を建てたことに始まるとある。その後山野やまの(現久住町)の城主朽網氏が同宮供田として郷内一六社から銭一貫文ずつを徴収して太宰府天満宮へ献上

朽網郷
くたみごう

和名抄」高山寺本にみえる松納郷は、その草書体字形が類似することから朽網郷のこととされる。また「豊後国風土記」直入郡には球覃くたみ郷が立項されているが、宮処野みやこのの割書に「朽網郷に在るところの野」とあり、球覃峯を同書大分郡大分河項では「朽網之峯」と表記していることから、球覃を朽網とする表記法も奈良時代には確立していたものと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の朽網郷の言及

【直入[町]】より

…中心の長湯は芹川に臨む温泉(重炭酸土類泉,45~50℃)の町である。古くは隣接する久住町の一部を含めて朽網(くたみ)郷と呼ばれた。天文年間(1532‐55)にはキリスト教の布教が進み,領主朽網氏以下信者は約300人を数え,豊後府内(現,大分市)などとともに全国有数の布教区の一つであった。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」