アダレイ(読み)あだれい(英語表記)Cannonball Adderley

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アダレイ」の意味・わかりやすい解説

アダレイ
あだれい
Cannonball Adderley
(1928―1975)

アメリカのジャズサックス奏者。フロリダ州タンパ生まれ。本名ジュリアン・エドウィン・アダレイJulian Edwin Adderley。「キャノンボール」は、彼の太った体型に由来した愛称である。1948年にフロリダのアーツ・アンド・ミュージック・カレッジを卒業した後、高校の音楽教師を務めながら自分でもバンドを率いて演奏活動を始める。

 1955年にはジャズの中心地であるニューヨークに進出。ジャズ・クラブ「カフェ・ボヘミア」で飛び入りで演奏し、並外れた技量で共演者を驚かせ、一躍アルト・サックスの有望な新人として注目を集める。サボイ・レーベルで、そのときの共演者であるドラム奏者ケニー・クラークKenny Clarke(1914―1985)のサイドマンとしてレコーディング・デビューし、直後に初リーダー作『プレゼンティング』(1955)を録音する。たまたまその年、天才的アルト・サックス奏者チャーリー・パーカーがこの世を去り、入れ替わりのような形で登場した彼は、「パーカーの再来」として期待された。

 1956年春から1957年末にかけ、弟のコルネット奏者ナット・アダレイNat Adderley(1931―2000)とクインテット結成し、演奏活動を行う。1957年秋には、ジャズ・トランペットの第一人者、マイルス・デービス率いるセクステットに加わり、翌1958年にマイルスの「モード奏法」による最初のアルバム『マイルストーンズ』の録音に参加。また同年、めったに他人のサイドマンを務めたことのないマイルスが、例外的にアダレイのリーダー作のサイドマンとなった『サムシン・エルス』を吹き込む。ただこれはコロンビア・レコードとの専属契約のあるマイルスが、名義上のリーダー役をアダレイに与えたものだった。とはいえ、この事実はいかにマイルスがアダレイのことを高く評価していたかを証明するものである。

 1959年には、ジャズ史上最大ともいわれる累積販売実績をもつマイルスの話題作『カインド・オブ・ブルー』に、テナー・サックス奏者のジョン・コルトレーン、ピアノ奏者のビル・エバンズらとともに参加する。しかし同年秋にはマイルス・デービス・グループを退団し、再び弟のナットとのクインテットを結成。時流に乗ったファンキースタイルでたちまち大衆的人気を得た。この時期放った彼らのヒット曲が、「ジス・ヒア」「ワーク・ソング」である。その後、ピアノ奏者がジョー・ザビヌルとなり、テナー、フルート奏者のユーゼフ・ラティーフYusef Lateef(1920―2013)が加わったセクステットで、1966年にファンキー・ジャズのヒット・アルバム『マーシー・マーシー・マーシー』で大きな成功を収める。

 ジャズ界が大きな転換期を迎えた1970年以降は、ピアノ、キーボード奏者のジョージ・デュークGeorge Duke(1946―2013)、パーカッション奏者のアイアート・モレイラAirto Moreira(1941― )らと演奏活動を行うが、1975年ニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演後、インディアナ州のコンサート会場に向かう途中、心臓病で急死した。

 アダレイは、1950年代の末に行き詰まりを迎えたハード・バップ・スタイルを、演奏に黒人的なニュアンスを色濃く込めたファンキー・ジャズによって転換を図り、その結果ジャズの大衆化に大きな寄与をした。ファンキーとはスラングで汗臭いとか土臭いという意味で、そこから演奏にアーシー(土俗的)な感覚を盛り込んだ黒人的ジャズを、ファンキー・ジャズとよぶようになった。実際のこのスタイルの演奏では、時代が下るほど黒人的要素の度合が強まると同時に、ファンキーという言葉が指し示す音楽的意味内容もジャズを越えた音楽ジャンルであるファンク・ミュージックに対しても用いられるなど変化している。

[後藤雅洋]

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