アブド・アルアジーズ・ブン・サウード
`Abd al-`Azīz b.Sa`ūd
生没年:1880-1953
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アブド・アルアジーズ・ブン・サウード
イブン・サウードとも。サウジアラビアの建国者,初代国王(在位1932年―1953年)。サウード家は18世紀以来の王家だが,19世紀末リヤドを追われ,クウェートに亡命した。1902年リヤドを奪回,1932年アラビア半島の大半を統一して王国を樹立。ワッハーブ派を積極的に採用して国家建設を進めた。
→関連項目アラビア半島|リヤド
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アブド・アルアジーズ・ブン・サウード
‘Abd al-‘Azīz b.Sa‘ūd
1880 - 1953.11.9
サウジアラビア国籍。
サウジアラビア国王。
リヤド生まれ。
別名イブン・サウード,アブドゥル・アジズ。
イスラム教ワッハーブ派のサウド家に生まれる。1891年サウド家がラシード家に敗れ、父とクウェートに亡命する。1901年リヤドを奪還、王国を再興する。’21年ラシード家を滅ぼし、’25年ヒジャーズ地方も支配し、ヒジャーズの王、ナジュドとその属領のスルタンとなり、’32年サウジアラビアと国名を改める。’38年油田を発見、その財源は遊牧民定住化や農業開発の財政的基盤となった。
出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内のアブドアルアジーズブンサウードの言及
【アラビア半島】より
…1839年にアデンを占領(1937年直轄植民地)したイギリスは,1835年以降ペルシア湾沿岸とアデン東方の群小首長国と条約を結んで保護下に置いていたが,北部ナジュドのハーイルの族長イブン・ラシードを後援し,91年,第2次ワッハーブ王国はイギリスとオスマン帝国の援助を受けたラシード家によって滅ぼされ,サウード家の一族はクウェートへの亡命を余儀なくされた。 年若い[アブド・アルアジーズ・ブン・サウード]が,ワッハーブ王国(サウード王国)復興のため,わずか40人の従者を引き連れてクウェートをあとにしたのは,1901年のことであった。彼は02年に奇襲によってリヤードを奪還すると,ベドウィンの定住化とその戦士としての組織化に努力し,13年にはペルシア湾沿岸のハサー地方のトルコ軍を追い,20年にはヒジャーズの南の紅海沿岸の地アシールを併せ,21年にはラシード家の本拠ハーイルを占領した。…
【サウジアラビア】より
…正式名称=サウジアラビア王国al-Mamlaka al-‘Arabīya al-Sa‘ūdīya∥Kingdom of Saudi Arabia面積=224万km2人口(1996)=1842万人首都=リヤードRiyād(日本との時差=-6時間)主要言語=アラビア語通貨=サウジ・リヤルSaudi Riyāl[アラビア半島]の約80%を占める王国。ナジュド出身のサウード家の[アブド・アルアジーズ・ブン・サウード]が建国した。彼は1902年にリヤードを手中にして以後アラビア半島に[ワッハーブ派]のサウード家の王国を再興し,24年にはイギリスの援助をうけていたヒジャーズの[フサイン]を破り,〈ヒジャーズの王,ナジュドおよびその属領のスルタン〉を称し,27年イギリスとジェッダ条約を結び,国際的承認をえた。…
【メッカ】より
…第1次世界大戦中,シャリーフの[フサイン]がオスマン帝国に対するアラブの反乱を指導し,戦後メッカでアラブの王と称した。1924年,彼は[アブド・アルアジーズ・ブン・サウード]に敗れてメッカを追われ,以後メッカはサウード家の王国の一部となり,今日ではサウジアラビア王国のメッカ州の州都となっている。【後藤 晃】
[イスラム教徒にとってメッカのもつ意味]
プトレマイオスの時代にマコラバという名で呼ばれていたこの町は,それより遥か以前から存在していたもようである。…
※「アブドアルアジーズブンサウード」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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