アユーブ・ハーン
あゆーぶはーん
Muhammad Ayūb Khān
(1907―1974)
パキスタンの軍人、政治家。北西辺境州ハザーラー県でパシュトゥン(パターン)人の軍人、地主の家に生まれる。アリーガル大学、イギリス王立陸軍士官学校を経て、1928年イギリス領インド陸軍に任官。1947年のパキスタン独立時には陸軍大佐、1951年にパキスタン人最初の陸軍総司令官、1954年に国防相となる。1958年10月無血クーデターで政権を掌握し、大統領に就任した。1959年官僚統治と間接選挙制を織り交ぜた基礎的民主制を導入し、1962年の第二次共和国憲法で強権的支配体制を確立した。対外的には、1962年中印国境紛争を契機に中国に接近、「等距離」自主外交を展開した。1968年末から強権政治、経済的不平等などに対する不満から反政府運動が激化し、1969年3月全権を陸軍総司令官ヤヒヤー・ハーンAgha Muhammad Yahya Khan(1917―1980)に委譲した。1974年4月20日病死した。
[浜口恒夫]
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アユーブ・ハーン
Muḥammad Ayūb Khān
生没年:1907-74
パキスタンの軍人,政治家。インド北西辺境州に生まれた。第2次世界大戦中ビルマ(現,ミャンマー)などで歴戦,パキスタン独立後,全軍最高司令官を経て,1954年国防相となった。58年戒厳司令官となり,次いで自ら大統領となり,軍事政権を樹立した。行政改革と農業改革や外資導入を伴う工業推進による経済開発に着手し,60年政府と国民の直結をうたう基本的民主主義制度を導入し,政権の固定化を図った。62年新憲法を制定し,中国,ソ連との国交を開始したが,インドに対抗し,中国の援助で軍備を強化した。65年の第2次インド・パキスタン戦争敗北後,学生の自由選挙要求運動に端を発する広範な反政府運動の中で69年3月辞任し,ヤヒヤ・ハーンに大統領を引き継いだ。
執筆者:内藤 雅雄
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アユーブ・ハーン
Mohammad Ayub Khan
1907~74
パキスタンの軍人,政治家。イギリス陸軍士官学校を卒業し,パキスタン独立後最高司令官となる。政党政治の腐敗,混乱に直面し,1958年にクーデタを決行し大統領となる。権威主義的体制により政治の刷新をめざしたが,69年に失脚。
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世界大百科事典(旧版)内のアユーブ・ハーンの言及
【パキスタン】より
…また西パキスタン諸州は行政的に一本化され,〈西パキスタン州〉となった。しかし,憲法で規定された総選挙は再々延期され,ついに58年10月アユーブ・ハーン陸軍司令官はクーデタを敢行し,憲法を廃止して軍事政権を樹立した。 アユーブ・ハーン軍政下では,世銀および西側諸国の援助に依存しつつ,民間主導型の急速な資本蓄積が実現された。…
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