インドパキスタン戦争(読み)インドパキスタンせんそう

改訂新版 世界大百科事典 「インドパキスタン戦争」の意味・わかりやすい解説

インド・パキスタン戦争 (インドパキスタンせんそう)

1947年8月のインド・パキスタン分離独立以降,印パ両国の3度にわたる戦争を指す。両国の対立は,分離独立にいたる国家建設理念への相互不信を起点とし,カシミールの帰属問題を軸として展開されてきた。47年10月,パシュトゥーン部族がカシミール渓谷に侵入し,その背後にパキスタンの手があるとみた当時のカシミール藩王(ヒンドゥー教徒)はインドへの編入を求め,インドの支援を要請したことから印パ対立は始まった。空輸されたインド兵はカシミール渓谷掃討作戦を展開し,ほぼ制圧に成功した。48年5月にはパキスタン軍の参戦もあったが,同年12月末,国連調停停戦が成立した。このカシミールを舞台にした宣戦布告なき戦争は,第1次インド・パキスタン戦争(印パ戦争)といわれる。

 印パ関係は62年の中印戦争後,再び緊迫する。65年4月初めのカッチ湿地での印パの衝突,5月初めのインド政府によるジャンムー・カシミールの指導者シャイフ・アブドゥッラーの逮捕,8月初めの武装ゲリラのパキスタンからカシミール渓谷への侵入へと事件が続いた。9月1日,パキスタン軍がチャンブを攻撃したのに対し,6日インド軍がラホールなどを攻撃し,印パ全面戦争が始まった。戦争は西部戦線を主として行われたが,米英両国の停戦圧力などで,9月22日印パ両国は国連安保理事会の停戦決議を受諾。66年1月,ソ連のコスイギン首相の調停で,印パ両国はタシケントでの首脳会議を経て開戦以前の状況に戻ることで合意した(第2次印パ戦争)。

 70年12月の総選挙で東パキスタンの自治を要求するアワミ連盟が過半数を制したことに対し,71年3月パキスタンのヤヒヤ大統領は軍隊を投入して大量虐殺を行った。インドは西パキスタンからの独立を求める〈ムクティ・バヒニ〉を支持した。12月3日,インド軍は東パキスタンに入り,そこでのパキスタン軍を敗退させた。12月16日,パキスタン軍は無条件降伏し,互角で戦った西部戦線でもパキスタンは停戦を認めた。第3次印パ戦争は,前2回の戦争と異なり,東パキスタンを焦点とするもので,東パキスタンが西パキスタンから分離しバングラデシュとして独立する契機となった。
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百科事典マイペディア 「インドパキスタン戦争」の意味・わかりやすい解説

インド・パキスタン戦争【インドパキスタンせんそう】

第1次は,インド・パキスタン分離独立直後の1947年―1948年,カシミールの帰属をめぐって起こった戦争。国連の調停で停戦。さらに1965年にはインド西部国境地帯を中心に武力衝突が起きた(第2次)が,カシミールは分割状態のまま国連の仲裁で停戦が成った。その間,西パキスタンの中央政府支配に反対して東パキスタンでは自治権獲得運動がしだいに激化した。1971年パキスタン中央政府軍が鎮圧に出たが,東パキスタンは武力抵抗を展開した。インドが東パキスタンを援助するに及んで全面戦争に発展したが,パキスタン中央政府軍は完敗し,東パキスタンは同年末バングラデシュ国名のもとに独立した。この第3次戦争はバングラデシュ独立戦争ともいわれる。両国間の緊張は以後も核保有問題とからんで南アジア地域の不安定要因の一つとなっている。
→関連項目アユブ・ハーンインド国際連合シムラ会議南アジア

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旺文社世界史事典 三訂版 「インドパキスタン戦争」の解説

インド−パキスタン戦争
インド−パキスタンせんそう

第二次世界大戦後,分離独立したインド・パキスタン両国の戦争。印パ戦争ともいう
【第1次】1947〜48 藩王国カシミールの帰属をめぐって発生。カシミール藩王の要請を受けたインドが兵士を空輸,1948年5月パキスタンも参戦。同年12月末,国連の調停で停戦が成立した。
【第2次】1965 1962年の中印国境紛争(国境問題で中国とパキスタンが接近)後,再びカシミール帰属問題からインドとパキスタンの対立が緊迫,65年4月のカッチ湿地での両国衝突後,西部戦線で両国が全面戦争を開始。同年9月,両国は国連安全保障理事会の停戦決議を受諾した。
【第3次】1971 東パキスタンの自治要求をインドが支援して開戦。背景には,1947年のパキスタン独立後,人口・経済面で優位にあった東パキスタンの西パキスタンに対する不満があった。1970年の総選挙で東パキスタンの自治を求めるアワミ連盟が過半数を制すると,翌71年西パキスタンが軍隊を投入して内戦が勃発。東パキスタンからインドへの難民流入が続くなか,同年12月,インド軍が東パキスタンに入り,そこで西パキスタン軍を破ると,西部戦線でも戦闘が始まる。戦闘はインドが大勝し,西パキスタンが停戦を承認。その結果,翌1972年1月,東パキスタンがバングラデシュとして分離独立を達成した。なお,カシミール帰属問題は1999年現在も未解決のままである。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「インドパキスタン戦争」の解説

インド‐パキスタン戦争(インド‐パキスタンせんそう)

1947年のインド・パキスタン分離独立以降,両国は3度大規模な戦争を戦った。(1)第1次は1947年10月に起こった。独立に際し帰属を明確にしなかったカシュミール藩王国にパキスタンが支援したとみられる部族の侵攻があり,藩王がインドに支援を求めて戦端が開かれた。(2)第2次は1965年4月に国境のカッチ湿原で衝突が起こり,9月に西部国境沿いで全面戦争になった。(3)1971年12月の第3次戦争はバングラデシュ独立をもたらした。パキスタン軍事政権は,60年代後半から高揚しつつあったベンガルの民族自決運動を抑圧し,多量の難民を生み出した。インドは独立運動を支援したため戦争に発展した。インドは2週間あまりで東パキスタンを制圧し,初めてパキスタンを圧倒した。現在両国間の紛争の最大の原因は,ムスリム多住地域であるカシュミールの帰属問題である。99年にも同地域カールギルで戦闘があった。98年に両国は核実験を行い,南アジア地域にさらに複雑な戦略的要素を付け加えた。

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世界大百科事典(旧版)内のインドパキスタン戦争の言及

【インド[国]】より

…94年のインドとパキスタンの軍事費は両国の国内総生産(GDP)のそれぞれ3.6%,7%を占めている。これはカシミール問題に端を発した3度にわたるインド・パキスタン戦争,62年のインドと中国の戦争,および米ソをはじめとする諸国からの武器売込みの結果である。この巨大な軍事費はより平和に役立つ仕方で支出しうるもので,例えば両国の戦車1台の購入費400万ドルがあれば両国の400万人の子どもに免疫ワクチンを投与することができる。…

【戦争】より

…第3は,領域ないし他の利害のために行われる国境戦争である。1971年のインド・パキスタン戦争はクラウゼウィツ的な意味での古典的形式を帯びた戦争であった。二つの正規軍が衝突し,勝利した側がその政治目的(この場合,争点は領土の征服ではなく,パキスタンの解体=バングラデシュの独立という第2の類型に属するものであるが)を達成したからである。…

【バングラデシュ】より

…ただちにアワミ連盟を中心にバングラデシュの独立が宣言され,ゲリラ戦による独立戦争が始まった。臨時政府にはゲリラ戦を長期にわたって支える基盤も力量も欠けていたが,71年12月インドが大量難民の流入を理由に介入,第3次インド・パキスタン戦争が始まり,パキスタン軍の無条件降伏によって,バングラデシュは〈解放〉された。
[ムジブル・ラーマン政権]
 こうして1971年12月16日,バングラデシュ人民共和国が独立国として発足した。…

※「インドパキスタン戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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