エンリケ2世(英語表記)Enrique Ⅱ

改訂新版 世界大百科事典 「エンリケ2世」の意味・わかりやすい解説

エンリケ[2世]
Enrique Ⅱ
生没年:1333?-79

カスティリャ王。在位1369-79年。アルフォンソ11世の庶子で,異母兄ペドロ1世の即位後に貴族の一部を率いて反乱を起こした。いったん敗れた後,アラゴン,フランス,ローマ教皇庁の支援を受けて再度挑戦,1369年自らの手でペドロを刺殺して即位,トラスタマラ朝を開いた。異常な形で王となった彼は,外交ではフランスと同盟を結ぶ一方,国内では諸侯に多くの所領を与えることで保身を図って王権の経済力を著しくそこない,後の混乱の原因を作った。
トラスタマラ朝
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「エンリケ2世」の意味・わかりやすい解説

エンリケ2世
エンリケにせい
Enrique II

[生]1333. セビリア
[没]1379.5.29. サントドミンゴデラカルサダ
カスティリア王 (在位 1369~79) 。トラスタマラ王家を創設。アルフォンソ 11世の庶子。庶出のために王座異母弟ペドロ1世 (残虐王)に与えられた。エンリケは力で王座を奪う決心をして,フランス,アラゴンなど外国で 10年間その機会の到来するのを待った。 1366年フランスのシャルル5世,アラゴン王,教皇ウルバヌス5世らの経済援助を受け,練達の傭兵を率いてカスティリアへ侵入,同年4月ブルゴスで王位についた。王位を追われたペドロはイングランド=カスティリア同盟に訴え,エドワード (黒太子) の支援によりいったんは復位した (67) 。しかしまもなく勢力を回復したエンリケが戻って,69年ペドロをみずから打ち破って殺し,再度念願の王位につき,71年には王国を完全に制圧した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のエンリケ2世の言及

【トラスタマラ朝】より

…中世後半イベリア半島のカスティリャとアラゴン連合王国の2国を統治した王朝。1369年初頭,カスティリャ王アルフォンソ11世の庶子でトラスタマラ伯エンリケは,父王を継いだ嫡子ペドロ1世をその手で刺殺,エンリケ2世Enrique IIとして王位に就き,新たにトラスタマラ朝を開いた。1410年,マルティン1世の死によってアラゴン連合王国は王家が断絶,12年にカスペCaspeで開かれた代表者会議は,カスティリャ王フアン1世の王子で通称フェルナンド・デ・アンテケーラFernando de Antequera(フェルナンド1世)を新王に選出した。…

【トラスタマラ朝】より

…中世後半イベリア半島のカスティリャとアラゴン連合王国の2国を統治した王朝。1369年初頭,カスティリャ王アルフォンソ11世の庶子でトラスタマラ伯エンリケは,父王を継いだ嫡子ペドロ1世をその手で刺殺,エンリケ2世Enrique IIとして王位に就き,新たにトラスタマラ朝を開いた。1410年,マルティン1世の死によってアラゴン連合王国は王家が断絶,12年にカスペCaspeで開かれた代表者会議は,カスティリャ王フアン1世の王子で通称フェルナンド・デ・アンテケーラFernando de Antequera(フェルナンド1世)を新王に選出した。…

※「エンリケ2世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android