英語名はヘンリーHenry the Navigator。ポルトガル王子。ジョアン1世の三男で、母はイギリスのランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの娘フィリパである。両親のはぐくむ素朴で宗教的な雰囲気のもと、狩猟と乗馬を愛するたくましい若者に成長した。1415年、対岸にある北西アフリカのムーア人の要都セウタCeutaの攻略戦に参加して武勲をたて、華やかに騎士の叙階を受ける。このセウタ滞在中に耳にした、アフリカ大陸内陸部に君臨するというプレスター・ジョン王の話や、黄金を運ぶ隊商、あるいはアフリカ西海岸に延びる海岸の話などに刺激され、帰国後、その海岸方面の探検事業に着手する。この結果、ポルト・サント島とマデイラ島(1418)、アゾレス諸島の一部(1427)、さらにベルデ岬諸島(1456)など大西洋上の島々が発見された。また、キリスト騎士修道会統轄者として自由にできる資金を元に、1422年より西海岸南下の船隊を派遣し、1434年ボジャドール岬を突破、1441年リオ・デ・オロ着、1443年ギニアに到達した。そして彼が他界する1460年の時点では、シエラレオネまでの海岸が探検されるに至る。こうした航海事業推進の背景には、プレスター・ジョンと連絡して、イスラム勢力を挟み撃ちにするという十字軍精神があったと考えられる。事実、終生妻をめとらず、敬虔(けいけん)なキリスト教徒として一生を送った。また、大西洋上の諸島での積極的な植民事業、ギニアに対する通航税と交易税の徴収、黒人奴隷の売買による利益取得になんら躊躇(ちゅうちょ)しなかったことなどは、鋭い経済観念の持ち主であったことを示している。
[青木康征]
カスティーリャおよびレオン王(在位1369~79)。カスティーリャ王アルフォンソ11世の庶子。即位するにあたって協力した貴族・聖職者に多くの領地を与えたため「恩寵(おんちょう)王」、また出自から「庶子王」とよばれる。1351年父王没後、異母弟で正式な嫡男である「残酷王」、あるいは「正義王」とよばれたペドロ1世Pedro Ⅰ(1334―69)が即位すると、王位奪取を恐れた弟王とその生母によってエンリケの生母は殺され、自身も命をねらわれる。そのため翌年から兄弟間の王位継承争奪となり、エンリケはフランスなどを味方に、一方弟王はイギリス王エドワード3世の長子「黒太子」(1330―76)の支援傘下で、内乱は長期化した。エンリケは最終局面において1366年に王を名のり、国内貴族・聖職者の絶大な援軍の下、1369年には弟軍勢を破り、弟を処刑後正式に王位につく。エンリケはトラスタマラ伯(養子)であったことから、以後トラスタマラ朝の開祖となる。これに対し、ポルトガル王フェルナンドFernando(1345―83)は、カスティーリャ王サンチョ4世の正統な孫としてカスティーリャ王位継承権を主張し、アラゴン、グラナダのイスラム教国と同盟を結び、ガリシアに侵入した。一方、エンリケは、ブラガを征服、ギマランイスGuimarãesを包囲する。1371年教皇グレゴリウス11世の仲裁で両王は和平を結んだ。ポルトガル王は、カスティーリャ王位継承権を放棄したものの、新しく王位継承権を主張するランカスター公ジョン・オブ・ゴーント(黒太子の弟、故ペドロ1世の庶子コンスタンサの夫)を支持した。エンリケは内乱勝利に恩義あるフランスと同盟し、1372年イギリス海軍に大勝した後、1373年2月リスボン入りを果たす。この両戦とも英仏百年戦争の一環をなし、いずれもポルトガルの敗戦に終わっている。
[林田雅至]
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