金銭による報酬を条件に軍隊に参加する兵士。Mercenaryの語源は報酬mercesである。傭兵は普通、集団で契約(コンドッタ)condottaを交わし、その統率者を傭兵隊長(コンドッティエーレ)condottiereといった。
歴史的にみると、古代ギリシアの都市国家(前8~前4世紀)や、下ってナポレオン戦争(1799~1815)以後の近代国家では、国家構成員のうち青壮年男子に軍隊への参加が義務づけられていたし、また中世封建時代は主従関係によって家臣は主君の軍隊に参加するのが義務となっていた。ところがギリシア都市国家の末期になって、義務であった市民の軍隊参加を嫌う者が増え、いきおい戦争(たとえばペロポネソス戦争〈前431~前404〉)には金銭で応じる傭兵が重要視されてきた。これが傭兵の始まりといわれる。
ついでマケドニアのアレクサンドロス大王のペルシア遠征(前334~前324)のように、広大な地域で戦争をするには大量の軍隊が必要となり、征服地の先住民を傭兵に採用せざるをえなかったこともある。
戦争が大規模化すれば兵力が不足し、やむをえず傭兵への依存が高まるといった例は、ジャンヌ・ダルクの登場で有名な英仏の百年戦争(1338~1453)があげられる。この戦争によって、長期戦では兵士の補給に勝った側が最終的に勝利者となることが示された。この戦争でイギリスに勝ったフランスのシャルル7世(在位1422~1461)の傭兵を中心とした強力な常備軍が各国の模範となり、歴史上、傭兵がもっとも活躍した時期(15~16世紀)となる。以後この形態はナポレオン戦争期まで続いた。
この時期の傭兵の供給源をみると、十字軍遠征(1096~1270)の退潮に伴い、活動の場を失ったヨーロッパ各地の、相続すべき封土のない次男以下の封建家臣、平騎士などが主であった。彼らは十字軍遠征にかわって大空位時代(1256~1273)の神聖ローマ帝国内の諸侯の対立、政争の絶え間ないイタリアでの戦闘に活動の場をみいだし、傭兵なしでは対応策もたてられない中世末期の君主、諸侯間の政争に東奔西走したのである。傭兵の出身地はドイツ、イギリス、フランス、イタリア、スイスなどであったが、このうちスイスの傭兵はもともとスイスの各州(誓約同盟)の独立のため武装した農民兵士であって、独立達成(1499)後はスイスの経済的貧困を打開するため、ヨーロッパ各地の傭兵となって働いたもので、傭兵契約は州当局が行うという特殊な存在であった。スイスの傭兵は勇敢で契約に忠実ということで人気が高かった。スイスの傭兵は今日、バチカン市の法皇庁警備兵にその名残(なごり)をみることができる。
しかし一般に傭兵はマキャベッリが『君主論』で批判しているように、戦闘技術に優れてはいるものの、忠誠心が薄く生死を賭(と)した一戦には不向きといわれた。また三十年戦争(1618~1648)によるヨーロッパの荒廃の一因が、君主から給与支払いを受けられなくなった傭兵が略奪の限りを尽くしたことにあるといわれたように、無法な戦闘者集団としての傭兵は同戦争以降しだいに敬遠され、国民軍にとってかわられるようになった。
その後傭兵は、アメリカ独立戦争(1775~1783)の際、イギリスに雇われたドイツ人傭兵Hessiansを除くと姿を消し、防衛にも攻撃にも、国民意識に目覚め、信頼しうる国民軍が主流となり今日に至っている。なお、第一次世界大戦前後から知られるようになった外人部隊(「外人部隊」参照)は、本質的には傭兵と同じであるが、主として帝国主義諸国が植民地の治安維持、暴動鎮圧などの目的で編成した補助部隊であり、傭兵とはいちおう区別して扱われる。
[藤村瞬一]
『アルフレート・ファークツ著、望田幸男訳『軍国主義の歴史 第1巻 封建騎士団から大衆軍隊へ』(1973・福村出版)』▽『マイケル・ハワード著、奥村房夫他訳『ヨーロッパ史と戦争』(1981・学陽書房)』▽『堀米庸三編『世界の歴史 第3巻 中世ヨーロッパ』(中公文庫)』▽『大野真弓編『世界の歴史 第8巻 絶対君主と人民』(中公文庫)』
金銭で雇われる軍人集団をいうが,その歴史はきわめて古い。前5世紀末,ギリシア人傭兵1万がペルシア王弟キュロスのために遠征したことは,クセノフォンの《アナバシス》に詳しい。中世では,戦力の主体は騎士とされていたが,傭兵の存在も知られている。1167年ブラバント人傭兵が当時イタリアにいたドイツ・神聖ローマ皇帝のもとに集結すべく南下した際,クリュニー修道院領を通過した。時の院長の書簡には〈ペスト発生に等しい災いである。その数およそ400。凶悪無残,野獣に異ならず,無差別に教会や村,老若男女を襲う〉と記されている。中世を通じて傭兵の活躍が知られているが,上に見たとおりつねにその略奪が問題となった。とくに百年戦争期のフランスで大きな害を引き起こす。当時,個々の傭兵隊は50名から100名程度,強力な隊長の掌握下に団結し,合戦が近づくたびに君主と契約して大軍を構成する一単位となる。最初から部隊を編成している点に傭兵隊の特徴があり,隊長はいわば戦闘の請負師である。問題は合戦が終わって扶持を離れている期間で,次の契約に備えて隊を崩さずに自活,すなわち組織的な略奪を生業とする。1360年代の〈コンパニー(中隊)の害〉,1430年代の〈エコルシュール(生き皮剝ぎ)の災い〉と呼ばれるものは略奪の横行の最も激しかった時期である。専属の蹄鉄工,武具工,医師,書記を従えている傭兵隊もあった。傭兵制を克服する新軍制の一つは非職業的軍隊,つまり民兵ないし国民軍の育成であったが,イギリスは別として大陸諸国では容易に定着しなかった。いま一つの道は国王直属常備軍への転換で,フランスの勅令中隊(コンパニー・ドルドナンス)設立(1445)が代表的なケースである。国籍を問わぬ職業的軍隊という点で絶対王政の常備軍,例えばブルボン朝のスイス連隊やプロイセンのフリードリヒ2世大王の〈巨人軍〉などを傭兵隊と呼ぶことがあるが,個人志願である点,および平時にも常時勤務して給与を受ける点で,前代の狭義の傭兵隊とは決定的に異なっている。H.ツウィングリが傭兵制を非難したことは有名である。なお,近・現代的傭兵の一形態として外人部隊がある。
→外人部隊
執筆者:渡邊 昌美
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
報酬契約によって雇われた軍人集団。初期の例としては,古代ギリシアの都市国家がペロポネソス戦争の際に傭兵を用いている。中世後期以降のヨーロッパでは,戦争の規模の拡大と長期化につれて傭兵の需要が高まり,百年戦争をへて15~16世紀に最も重用された。しかし傭兵は規律の維持が困難で,三十年戦争の災禍は傭兵に帰されることが多い。戦闘技術は高いが忠誠心が薄く,国家防衛の要にはならないとされ,絶対主義から市民革命の時代に常備軍が国民軍として形成されると,しだいに無用化した。ただし,その後も帝国主義諸国が植民地の治安維持に用いている。ドイツ,イタリア,スイスなどが多くの傭兵を送り出し,特にスイス人傭兵は契約に忠実と評判が高かった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…外国人を雇って編成した軍隊をいい,傭兵の一形態である。近代国家の軍隊が,祖国への忠誠心や愛国心を基調とする徴兵または志願兵制の国民軍であるのに対し,外人部隊は金銭的報酬を条件に,契約によって戦闘を義務づけた傭兵で編成された武装集団であって,主として植民地の治安維持などの任務に使われ,国家防衛の中核的役割を担うことは少ない。…
…〈指揮する〉または〈雇う〉を意味するラテン語conducereに由来し,〈傭兵契約condotta〉を結んだ者=傭兵隊長を示すイタリア語。請負兵員数,奉仕の期間と義務,支払方法等を定めた契約が,13世紀中頃から作成され始める。…
…以後,歩兵,騎兵,砲隊をいかに結合配置するかが作戦の要諦(ようてい)となり,当然重点は攻城戦から野戦に移っていく。
[傭兵の使用]
封建的な軍隊は統制が難しかったため,早くから傭兵が使用されたが,その大規模な登場は百年戦争中であった。彼らは100人未満の小集団をなし隊長の固い統率下にあり,合戦ごとに傭われた。…
※「傭兵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新