ガラプラキディア(英語表記)Aelia Galla Placidia

改訂新版 世界大百科事典 「ガラプラキディア」の意味・わかりやすい解説

ガラ・プラキディア
Aelia Galla Placidia
生没年:388ころか390ころ-450

ローマ帝国皇女テオドシウス1世ウァレンティニアヌス1世の末娘ガラとの間に生まれ,父帝の死(395)後はスティリコとその妻セレナの養育に託された。408-409年ローマ市を脅かしていた西ゴート手中に落ち,410年8月西ゴートのローマ市略奪後,捕虜として連れ去られる。414年西ゴート王アタウルフと結婚し,親ローマ政策を採るよう夫に働きかけたと思われるが,アタウルフは翌年殺害された。416年の同盟締結により西ゴートからローマ側に返還されたプラキディアは,翌417年異母兄ホノリウス帝の命で将軍コンスタンティウスと再婚し,1女1男(のちのウァレンティニアヌス3世)をもうけた後,421年兄を説いて夫を共治帝とさせ,自らはアウグスタ位を受けた。しかし同年9月の夫の病死後,兄帝との間に不和が生じ,423年初頭に2子と共にコンスタンティノープルへ逃れた。同年8月ホノリウスが死去してローマ市に奪帝が立つと,東帝テオドシウス2世はプラキディアとその息子の正統性を支持し,東軍を送って奪帝を倒した。かくて425年にわずか6歳で即位したウァレンティニアヌス3世の母として,帝国西部の実質的統治者となったプラキディアは,正規軍の弱体化や財政窮乏,大土地所有貴族や将軍の専横といった難問に直面して,貴族層懐柔や将軍間の勢力均衡保持,さらにカトリック教会との結びつきにより帝国と帝権の護持に努めたが,やがて将軍アエティウスに実権を奪われた。息子と東帝の娘の結婚(437)後は,息子への影響力を保持しつつも政治から身をひいたと思われ,ラベンナを中心に教会建立など信仰活動に専心した。450年11月ローマ市で死去。ラベンナには今なお,彼女が建立した霊廟が当時の美しいモザイクもそのままに残っている。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のガラプラキディアの言及

【ローマ】より

…東の帝国は1453年までいわゆるビザンティン帝国として存続するが,西の帝国は476年をもって皇帝が存在しなくなり,それ以後しばらくはおおむね東帝の権威を認めるゲルマン人の諸王が支配する。西では,ホノリウスの死後,簒奪者ヨハンネスの間奏曲を挟んで,ホノリウスの異母妹ガラ・プラキディアの息子ウァレンティニアヌス3世(在位425‐455)が帝位を占めた。ホノリウス治世の前半はバンダル出身のローマ軍司令官スティリコが政治の実権を握り,ウァレンティニアヌス3世の治世は母ガラ・プラキディア(450没)の影響下にあった。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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