改訂新版 世界大百科事典 「スティリコ」の意味・わかりやすい解説
スティリコ
Flavius Stilicho
生没年:365ころ-408
ローマ帝政後期の将軍。ローマ軍に勤務するバンダル人の息子として生まれ,383年ころローマ軍将校となり,ペルシアへの使節団に参加した。帰国後テオドシウス1世の姪セレナと結婚,385年ころ親衛将校団長(コメス・ドメスティコルム)に昇進。392年ころおそらくはトラキアの全軍司令官となり,394年にはティマシウスTimasiusとともにエウゲニウス討伐戦の指揮を執る。戦勝後,帝国西部の全軍最高司令官に任じられ,395年1月テオドシウス帝の死に臨んで西帝ホノリウスの後見をゆだねられて,帝国西部の事実上の支配者となった。だが,東イリュリクムの管轄をめぐって東ローマ政府と対立,395年アラリック麾下の西ゴート鎮圧のためギリシアに進軍した彼は,勝利を目前にして,ルフィヌスの教唆を受けた東帝アルカディウスから,西への撤退と対エウゲニウス戦以来彼の指揮下にあった東ローマ軍の返還を命じられ,命令には従ったが,ゴート人将校ガイナスGainasにルフィヌスを暗殺させた。397年にも海路ペロポネソスに渡り西ゴート鎮圧を図るが,このときはエウトロピウスの教唆を受けた東帝に再び撤退を命じられた。同年にはアフリカでギルドの反乱も起きたが,ギルドの兄弟マスケツェルMascezelを派遣して翌年これを鎮圧。また,401年秋東ローマに抱き込まれたアラリックがイタリアに侵入すると,ブリタニアやガリアから軍勢を撤退させてイタリア防衛に努め,ポレンティア(402)およびベローナ(403)の会戦で西ゴートを退却させ,406年には前年イタリアに侵入したラダガイススRadagaisus率いるゲルマン混成軍を,ファエスラエで殲滅(せんめつ)した。
一方で彼は東イリュリクム問題に決着をつけるべくアラリックを抱き込むが,イタリア防衛のための軍隊撤収はブリタニアでの奪帝擁立(407),ゲルマン諸族のライン渡河(406-407)を招き,イリュリクム進攻計画は挫折した。かかる状況下でアラリックは賠償金支払いを西政府に強要,スティリコは譲歩を余儀なくされた。この間,彼は2度コンスル職に就き(400,405),2人の娘を相次いでホノリウス帝に嫁がせ,西政府内での地位を固めていたが,反ゲルマン主義者など敵も多かった。408年5月東帝アルカディウスが死去すると,オリュンピウスはスティリコが息子を東帝位に就ける考えだと誣告(ぶこく)し,同年8月軍隊に反スティリコ暴動を起こさせた。スティリコはいったん教会に避難したが投降し,処刑された。詩人クラウディアヌスは彼をたたえる一連の詩を残している。
執筆者:後藤 篤子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報