ラベンナ(読み)らべんな(英語表記)Ravenna

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラベンナ」の意味・わかりやすい解説

ラベンナ
らべんな
Ravenna

イタリア北東部、エミリア・ロマーニャ州ラベンナ県の県都。人口13万8204(2001国勢調査速報値)。全長12キロメートルのコルシーニ運河によってアドリア海に面するポルト・コルシーニと結ばれる。豊かな農業地帯に位置し、農産物の取引や食品工業が行われていたが、1953年メタンガス田の発見を契機として重化学工業都市に転身し、石油化学、石油精製、繊維、セメントなどの工業が発達した。ビザンティン式モザイク芸術の宝庫であり、ガッラ・プラチーディア廟墓(びょうぼ)(5世紀)、サン・ビターレ聖堂、サン・タポリナーレ・ヌオーボ聖堂、近郊のクラッセにあるサン・タポリナーレ・イン・クラッセ聖堂(いずれも6世紀)などに傑作をとどめている。サン・ビターレ聖堂のユスティニアヌステオドラのモザイクはとくに有名。

[堺 憲一]

歴史

海に向かって開け、内陸部に対しては沼沢地を天然の要塞(ようさい)としたラベンナは、すでに紀元前1世紀から軍事的要地であった。ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(在位前27~後14)がクラッセ港を開き艦隊基地としてから急速に発展し、402年西ローマ帝国の首都がミラノから当地に移されてさらに拡大整備された。帝国を倒したオドアケル、493年に彼を倒した東ゴート王テオドリックもここを首都とし、ユスティニアヌス1世のイタリア再征服(554)以後は、ビザンティン帝国の出先行政府の所在地となった。6世紀を頂点にその繁栄は陰りをみせ始め、751年ランゴバルド人に征服され、756年フランク王ピピンにより教皇領とされた。神聖ローマ帝国成立後の一時期、皇帝の大封臣たるラベンナ大司教の下で昔日の繁栄を若干取り戻したと考えられ、コムーネ(自治都市)としての成立はイタリアでももっとも早い時期に属する。1321年にはダンテがここで没した。15世紀にはベネチアの支配下に入るが、1509年教皇に返還された。ナポレオンによる制圧後、1815年に教皇に返還され、1860年イタリア王国に統合された。

[後藤篤子]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラベンナ」の意味・わかりやすい解説

ラベンナ
Ravenna

イタリア北部,エミリアロマーニャ州の東部,ラベンナ県の県都。ベネチア南方 110km,アドリア海岸に近い平地を占める。かつてはポー川分流の河口に近く,港となっていた。テッサリア人が建設し,前 191年にローマの支配下となった。 402年に西ローマ帝国初代の皇帝ホノリウスが移って種々の施設を造り,首都として市街も整備された。その後,ランゴバルド,ビザンチン,ベネチア,教皇と支配が交代し,1860年にサルジニア王国に併合された。現在は干拓,排水によって造成された農業地域の集散地で,コルシニ運河で海と結ばれる。付近から天然ガスを産出し,食品,繊維,化学,石油化学などの工業が発達。初期キリスト教文化の宝庫といわれ,5~8世紀に建設されたガラ・プラキディア廟サン・ビターレ聖堂,ネオニアノ洗礼堂,サンタポリナーレ・ヌオーボ聖堂など,いずれもモザイクの美しい歴史的建造物は,1996年世界遺産の文化遺産に登録されている。人口 15万8739(2011推計)。

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