クーシネン
くーしねん
Отто Вильгельмович Куусинен/Otto Vil'gel'movich Kuusinen
(1881―1964)
ソ連の政治家。ロシア統治下にあったフィンランドに生まれ、1905年ヘルシンキ大学卒業。在学中よりフィンランドの社会主義運動に加わる。1918年の短命に終わったフィンランド革命政府に参加し、ソビエト・ロシアに亡命してフィンランド共産党を創立する。その後、主としてコミンテルン(共産主義インターナショナル)で活動し、1921~1939年コミンテルン執行委員会書記。1939年末、ソ連・フィンランド戦争開始直後に形成されたフィンランド民主共和国の首班となる。
翌1940年のソ・フィン講和でカレリア地方がソ連に割譲されてからはカレロ・フィン共和国の最高会議幹部会議長。1941年からソ連共産党中央委員、1952~1953年および1957年から党幹部会員(のち政治局員と改称)兼書記局員。1964年モスクワで死去し盛大に葬られる。
[塩川伸明]
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クーシネン
Otto Vil'gel'movich Kuusinen
生没年:1881-1964
フィンランド人の革命家,のちソ連邦の政治家。1904年よりフィンランド社会民主党左派で活躍し,ロシア革命後のフィンランド独立に際して,不発に終わった革命を指導,18年にはフィンランド共産党を組織した。コミンテルンにおいては執行委員会書記(1921-39)として,国際労働運動でも重要な役割を果たす。日本の天皇制との闘争を強調した32年テーゼの起草に参加,日本共産党への指導も行った。39年のソ・フィン戦争時は傀儡(かいらい)的〈人民政府〉の首班となった。40-58年,ソ連邦カレロ・フィン共和国最高会議幹部会議長,ソ連邦最高会議幹部会副議長。ソ連共産党中央委員会幹部会員(1952-53,1957-64)をつとめ,57年以降同党中央委員会書記,58年には科学アカデミー会員となった。
執筆者:下斗米 伸夫
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クーシネン
フィンランドの革命家,のちソ連邦の政治家。1918年フィンランド共産党を組織,1921年―1939年コミンテルン執行委員会書記として,32年テーゼの起草に参加し,日本共産党の指導にも当たった。ソ・フィン戦争に際し,1939年ソビエトの傀儡(かいらい)政府首班。以後,ソ連邦で要職を歴任。
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クーシネン
Kuusinen, Otto Vil'gel'movich
[生]1881.10.4. ラウカー
[没]1964.5.17. モスクワ
ソ連の革命家,政治家。フィンランド生れ。ヘルシンキ大学に学び,1904年社会民主党に入党,05年党機関紙の編集員となった。 18年フィンランド革命政府の一員となり,フィンランド共産党の創立に参加。のちソ連に亡命,21年コミンテルン執行委員会の書記となり,コミンテルン解散まで国際共産主義運動を指導,日本についても論文を発表した。ソ連共産党中央委員会幹部会員,ソ連邦最高会議代議員。
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クーシネン
生年月日:1881年10月4日
ソ連の革命家,政治家
1964年没
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世界大百科事典(旧版)内のクーシネンの言及
【32年テーゼ】より
…日本共産党は1931年4月〈政治テーゼ草案〉を起草し,当面の革命の性質をプロレタリア革命であるとしたが,満州事変勃発の情勢のもとで正しくないという批判を招いた。[コミンテルン]で片山潜,野坂参三,山本懸蔵ら日本代表も参加して検討の結果,32年3月執行委員会常任委員会での[クーシネン]の報告〈日本帝国主義と日本革命の性質〉を経て,5月執行委員会西欧ビューローの名でこのテーゼが決定され,日本では,元京都帝大教授河上肇の翻訳により,7月《赤旗》特別号に発表された。正式名称は〈日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ〉。…
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