1922年(大正11)に結成された日本の共産主義政党。第二次世界大戦前は非合法状態におかれ、敗戦後に合法化されたが、議会政党として最左派に位置し、政権に参画したことはない。しかし、知的な影響力と強固な組織力とによって、現在に至るまで日本政治で大きな存在感を示してきた。
[中北浩爾 2023年2月16日]
日本共産党の創立は、1922年7月15日とされる。ロシア革命後に発足した共産主義インターナショナル(コミンテルン)が、日本の社会主義者に働きかけた結果であり、同年末のコミンテルン第4回大会で、日本支部として正式に承認を受けた。ところが、1923年6月5日の一斉検挙、同年9月1日の関東大震災のもとでの共産主義者らの虐殺事件を受けて、コミンテルンの承諾がないままに解党する。
その後、コミンテルンの支援を得ながら党の再建が進められ、1926年12月4日から第3回大会が開かれた。解党前の中心的なリーダーであった山川均(ひとし)は、幅広い大衆を基礎とする合法無産政党の結成を目ざして、これに参加せず、福本和夫が理論的な指導者となった。ところが、その極左的な方針はコミンテルンに受け入れられず、ブハーリンが執筆した「二七年テーゼ」が、初めての綱領的文書として採択された。日本資本主義の半封建的性格という認識のもと、ブルジョア民主主義革命が社会主義革命に急速に転化するという二段階革命論は、絶対主義的な天皇制の打倒を掲げる「三二年テーゼ」へと引き継がれた。
ところが、1925年4月22日に治安維持法が公布されるなど、日本共産党は政府の激しい弾圧を受け、1928年(昭和3)の三・一五事件、翌年の四・一六事件といった一斉検挙が繰り返され、逮捕者への拷問や党内へのスパイの潜入も行われた。また、日本共産党は、ソ連共産党が指導するコミンテルンへの従属などの弱点を抱え、それに疑問を感じた最高幹部の佐野学と鍋山貞親(なべやまさだちか)(1901―1979)が1933年6月10日に獄中で声明を出し、これ以降、転向が相次いだ。1935年3月4日には袴田里見(はかまださとみ)(1904―1990)が逮捕され、党中央委員会が壊滅した。
[中北浩爾 2023年2月16日]
アメリカを主体とする占領軍は1945年(昭和20)10月4日、日本政府に政治犯の即時釈放や治安維持法の廃止などを命じる「人権指令(自由の指令)」を発した。その6日後、徳田球一、志賀義雄(よしお)ら共産主義者が出獄し、公然活動に乗り出した。同年12月1日からの日本共産党第4回大会で再建された日本共産党は、合法化されたことに加え、長く獄中で非転向を貫いた徳田らの名声もあって、急速に勢力を伸ばし、全日本産業別労働組合会議(産別会議)などを指導下におくなど、労働運動の主導権を握った。
日本共産党は当初、占領軍を解放軍とみなし、平和革命路線をとったが、二・一ゼネストへの中止命令、米ソ冷戦の激化などを受けて、反米に傾斜していった。1949年1月の衆議院選挙では35議席を獲得した。しかし、レッド・パージとよばれる占領軍と日本政府の弾圧を受けて、徐々に労働運動の主導権などを失っていった。1950年1月6日、ソ連共産党を中心とする共産党および労働者党情報局(コミンフォルム)から批判されたことを契機に、それに反論した所感派と国際派の党内対立が激化したが、結局、所感派もコミンフォルム批判を受け入れた。同年6月6日の占領軍による党中央委員の公職追放指令を受けて、所感派の書記長徳田らは中国に渡り、ソ連・中国共産党の指示のもと、武装闘争の必要性を唱える「1951年綱領」を制定し、実行に移したが、失敗に終わった。
1955年7月27日からの第6回全国協議会(六全協)では、それまでの極左的な方針を否定し、党の統一を回復した。1958年7月21日からの第7回大会では、議長に野坂参三(さんぞう)を選出するとともに、死亡した徳田に代わる書記長に旧国際派の宮本顕治(けんじ)が就任した。さらに安保闘争後の1961年7月25日からの第8回大会で、新たな綱領を制定した。この「1961年綱領」は日本を高度に発達した資本主義国でありながらアメリカの事実上の従属国であると位置づけ、民族民主革命が社会主義革命に急速に転化するという二段階革命論を主張した。
やがて宮本指導下の日本共産党はソ連、ついで中国と衝突し、1966年10月24日からの第10回大会で、自主独立路線を確立した。また、大衆的な党組織の建設に努め、党員数や機関紙『赤旗(あかはた)』(現、『しんぶん赤旗』)の部数が飛躍的に伸長し、民主商工会(民商)や日本民主青年同盟(民青)などの大衆団体も発展した。1970年7月1日からの第11回大会では宮本が委員長になり、不破哲三(ふわてつぞう)が書記局長に就任するとともに、人民的議会主義を打ち出した。さらに1972年12月の衆議院選挙で38議席を獲得し、社会党に次ぐ野党第二党に躍進し、民主連合政府の構想を打ち出した。この時期、東京都をはじめ革新自治体が多数誕生し、理論的にもプロレタリア独裁を放棄するなどの刷新を図った。ただし、分派の禁止を含む民主集中制(民主主義的中央集権制)の組織原則は維持した。
ところが、日本共産党の民主集中制に対する批判が強まり、1970年代なかばごろから党勢に頭打ちの傾向がみえ始めた。また、1980年1月10日に日本社会党が公明党と合意を結び、日本共産党を政権協議の対象から外すことを決めた。停滞と孤立のなか、日本共産党は1982年7月27日の第16回大会で宮本議長、不破委員長の体制に移行した後、1990年(平成2)7月9日からの第19回大会で志位和夫(しいかずお)(1954― )を書記局長に起用し、若返りを図った。しかし、逆風は続く。1989年に中国の天安門事件や東欧の民主化革命が発生し、1991年にはソ連が崩壊した。また、1994年の政治改革によって、日本共産党に不利な小選挙区制を中心とする選挙制度が衆議院に導入された。
[中北浩爾 2023年2月16日]
国際共産主義運動の指導党であったソ連共産党の解散は、日本共産党にとっても打撃となったが、自主独立路線などを背景に、比較的軽微なものにとどまった。長く野党第一党であった日本社会党が、非自民連立政権に参加した後、宿敵の自由民主党(自民党)と連立を組んだため、それに失望した旧来の日本社会党支持者を取り込んだ日本共産党は「唯一の革新」を標榜(ひょうぼう)して議席を増やし、1996年10月の衆議院選挙で26議席と躍進した。宮本議長の引退を経て、1998年7月の参議院選挙では過去最高の23議席に達した。
2000年(平成12)11月20日の第22回大会で、志位が委員長に就任し、不破が議長に回った。1994年に「中立自衛」論から「非武装中立」論に転換していた日本共産党は、2004年1月13日からの第23回大会で新たな綱領を制定し、従来の二段階革命論を維持しながらも、護憲の方針を明確化した。しかし、2000年代に入ると、自民党と民主党を軸とする二大政党化の動きが進展し、日本共産党は議席を減らした。また、党員や機関紙の面でも後退が続いた。
ところが、2012年に民主党政権が終わり、自民党政権が復活すると、翌年7月の参議院選挙以降、一転して躍進する。さらに2015年の安保法制反対運動を契機として「戦争法(安保法制)廃止の国民連合政府」を呼びかけ、翌年の参議院選挙から野党共闘の名のもとで民進党などとの選挙協力が行われるようになった。しかし、立憲民主党と「限定的な閣外からの協力」を合意して臨んだ2021年(令和3)10月の衆議院選挙で後退し、野党共闘は行きづまった。また、党員数など党勢の衰退にも歯止めがかかっていない。
2024年の時点で、委員長は田村智子(1965― )、書記局長は小池晃(あきら)(1960― )、国会議員数は衆院10人、参院11人、党員数は約26万人、機関紙(日刊紙・週刊紙を含む)の読者数は約90万人。2023年末の地方議員数は、都道府県議会議員が113人、市区町村議会議員が2226人。
[中北浩爾 2023年2月16日]
『日本共産党中央委員会編・刊『日本共産党の八十年 1922~2002』(2003)』▽『中北浩爾著『日本共産党――「革命」を夢見た100年』(中公新書)』
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日本の共産主義政党。第1次世界大戦後の社会運動の高揚とロシア革命の影響が波及するなかで,社会主義も新たな台頭をみせ,1920年12月に日本社会主義同盟が結成された。このころ,ロシア革命の成果を吸収した堺利彦や山川均らによるマルクス=レーニン主義の普及とコミンテルンからの働きかけがあいまって,21年4月には堺,山川らが中心となって日本共産党準備委員会を組織し,〈日本共産党宣言〉と〈日本共産党規約〉を採択した。22年1月から2月にかけてコミンテルン主催の極東民族大会に,アメリカから入露した片山潜らとともに日本から徳田球一,高瀬清,吉田一らが参加したことが契機となり,同年7月15日,正式の創立大会がもたれ,堺利彦が委員長となった。発足した党は,同年11月のコミンテルン第4回大会でコミンテルン支部・日本共産党として承認された。
創立後,党は《前衛》7・8月号掲載の山川の〈無産階級運動の方向転換〉を指針として労働者や知識人に影響を拡大するとともに,1923年2月の第2回大会で,コミンテルン第4回大会のとき片山の参加で起草された〈君主制の廃止〉をはじめとする民主主義革命を骨子とする〈日本共産党綱領草案〉を審議したが,採択には至らなかった。同年5月の早稲田軍教事件をきっかけに当局は共産党の存在を知り,堺,山川,徳田,市川正一,野坂参三ら党員を逮捕し29名を治安警察法違反で起訴した。この第1次共産党事件に続く関東大震災時の社会主義者の虐殺を含む弾圧のなかで赤松克麿らの解党論が台頭し,24年2月に荒畑寒村の反対はあったが解党を決議した。解党後設置された残務整理委員会は,同年5月雑誌《マルクス主義》を発刊したりしたが,コミンテルンは解党に反対し,25年1月の上海会議で党再建を指示した。会議に出席した徳田らは残務整理委員をビューローに改組し,同年9月には合法機関紙《無産者新聞》を発刊して労働問題や無産政党問題に対応するなかでコミュニスト・グループを拡大し,26年12月に山形県五色温泉で再建(第3回)大会を開催した。再建共産党の委員長には佐野文夫が就任したが,その理論的指導者は政治部長の福本和夫であった。福本イズムは〈分離結合〉論といわれ,党や大衆組織の結集のまえに〈マルクス主義的政治意識〉を分離結晶すべきであり,そのための理論闘争を強調したものであった。その結果は,実践運動の軽視と理論闘争による無産階級の大衆的組織の分裂をも促進した。再建共産党の実態をみたコミンテルンは,福本,徳田,渡辺政之輔,鍋山貞親らの幹部を27年7月モスクワに呼び,党再建に反対した山川とともに福本イズムを分裂主義と批判し,党再建の組織方針と日本革命の基本的方針を示した〈日本問題に関する決議〉(〈27年テーゼ〉)を作成した。同年12月の拡大中央委員会はテーゼを採択し,工場細胞の建設,機関紙《赤旗(せつき)》創刊,労働農民党,日本労働組合評議会,日本農民組合,全日本無産青年同盟などをとおしての労農運動,対支非干渉運動,初の普通選挙などに活動した。しかし,再建を知った警察は,28年三・一五事件と翌29年四・一六事件の大検挙で党組織と労農党はじめ影響下の大衆組織に壊滅的打撃を与えた。
弾圧による幹部の喪失と1928年夏のコミンテルン第6回大会での〈社民主要打撃〉論などの方針は共産党に混乱をもたらし,恐慌下には武装闘争を展開して大衆から遊離したが,31年の満州侵略に反対する闘争のなかで党勢を拡大し,32年に採択された綱領〈32年テーゼ〉は日本資本主義と天皇制国家の分析で学界にも大きな影響を与えた。しかし党本部に潜入したスパイ松村某(飯塚盈延)の画策,それに起因する党内闘争の激化,加えて33年6月の佐野学・鍋山貞親の声明に始まる大量転向,そして野呂栄太郎の検挙(33年11月)を機とする赤色リンチ事件とそれに続く宮本顕治・袴田里見の検挙(33年12月,35年3月)で党中央部は解体した。その結果,コミンテルンの反ファシズム人民戦線の政策についても,海外から野坂らが指示しても,一部党員の実践にとどまり,36年以降はファシズムの弾圧体制のもとで閉塞状態におかれた。
敗戦後の1945年10月,占領軍の指令で獄中にあった徳田,志賀義雄らは釈放されるとただちに《赤旗》を再刊して活動を開始し,同年12月に第4回大会を開いて行動綱領を決定し,徳田書記長以下の役員を選んで組織を再建した。敗戦時の食糧難のなかで急速に発展した労働運動の面では産別会議を指導下におき,また46年1月の野坂の帰国を機に盛り上がった民主人民戦線運動によって大衆的影響力も拡大し,46年4月の戦後初の総選挙で5名の当選者を出し,49年1月の選挙では35名を当選させた。しかし,冷戦による占領政策の転換による共産党弾圧(レッドパージ),労働運動に対する政治的押しつけへの反発,50年1月のコミンフォルムによる民族闘争を軽視した平和革命方式への批判(コミンフォルム批判)とそれを契機とする党の分裂・抗争により弱体化し,加えて徳田派が51年10月の第5回全国協議会で武力革命を方針とする〈新綱領〉を採択し,それに基づいて中国革命にならった山村工作隊や火炎びん闘争などの軍事方針を実施したため,52年の総選挙で前回の得票数298万票から89万票(議席はゼロ)に激減したことに示されるように,国民大衆の支持を失うに至った。
講和発効後の1955年7月の第6回全国協議会(六全協)は,武装闘争を放棄し党の統一を回復した。その後,56年2月のスターリン批判後の新たな潮流のなかで,原水爆禁止運動,基地反対闘争,警職法闘争,安保闘争を通じてしだいに大衆運動との結合を回復し,61年7月の第8回党大会で,統一戦線に基づく反米・反独占の民族民主主義革命を経て社会主義革命を達成するという綱領を採択し,中央委員会議長に野坂参三,書記長に宮本顕治の50年問題で分裂した両派の幹部を選出した。
新路線を確定した宮本を中心とする指導部は,議会政策の重視,党員と機関紙《赤旗》の拡大を追求して一定の政治的影響力をもつようになり,1967年の美濃部革新都政をはじめ大阪,京都,沖縄などの革新自治体を生み支える力となり,国政レベルでも72年12月の衆議院議員選挙で24増の38議席,74年7月の参議院選でも9増の13議席を獲得し,国会議員数58人という党史上最高を記録した。
しかし,80年代に入り社会党の右傾化,労働戦線の右翼的再編が進むなかで政界内での孤立化がすすみ,総選挙では79年12月の39議席獲得を除いては後退から停滞を続けた。とりわけ,89年の中国の天安門事件と東欧の共産主義政権の急激な崩壊は大きな影響をもたらした。しかし,55年体制が崩壊し,野党第一党であった社会党が細川護煕・橋本竜太郎連合政権に入り自衛隊や日米安保容認など従来の革新色を失い,共産党を除く諸党の政策的相違が稀薄になるに伴って同党はしだいに支持を拡大し,96年10月の総選挙では15から26に議席を増やして,97年9月の第21回党大会を迎えた。この大会では,民主的改革のために従来の社共中軸型の統一戦線にこだわらず,保守・革新を問わず民主的な無党派層との統一の方針を打ち出した。宮本顕治はこの大会で議長を退き名誉議長となり,不破哲三・志位和夫体制が発足した。96年12月現在,国会議員数40人,党員数約36万人,機関紙《しんぶん赤旗》約250万部(日刊・日曜版合計)。その指導影響下には,民主青年同盟,全労連(全国労働組合総連合),全国革新懇(平和・民主主義・革新統一をめざす懇談会),全国商工団体連合会(民主商工会の全国組織),新日本婦人の会,全日本学生自治会総連合,日本平和委員会,原水爆禁止日本協議会などの組織がある。
執筆者:岡本 宏
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(星浩 朝日新聞記者 / 2007年)
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日本の共産主義政党。1922年(大正11)7月15日,コミンテルンの指示にもとづいて秘密裡に創立された。一時解党ののち,26年(昭和元)12月に再建。普通選挙の実施にともない,共産党の影響力拡大をおそれた政府は3・15事件,4・16事件で弾圧を加えた。32年にはコミンテルンの指導で天皇制廃止とブルジョア革命をめざすテーゼを作成。このテーゼは戦前期の明治維新史研究などに強い影響を与えた。33年の佐野学・鍋山貞親の転向声明以後大量の転向者をだし,35年までに中央指導部も壊滅した。第2次大戦後は合法政党として党組織を再建。占領期には労働組合運動を通じて国民との太いパイプをもっていたが,50年の分裂と武装闘争方針で支持を失った結果,55年極左方針を転換した。60年代末からの革新ムードのなかで党勢を拡張したが,現在までのところ72年の総選挙での39人(革新共同を含む)当選を上まわる勢力にはなっていない。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…1928年に創刊された日本共産党中央機関紙。ただし,第2次大戦前は一般に〈せっき〉と呼ばれた。…
…ソ連共産党が和解の手を差しのべたのは,スターリンの死後であり,第一書記に就任したフルシチョフは55年5月ベオグラードを訪問,ユーゴスラビア共産党に加えられた数々の侮辱を詫びた。ヨーロッパ以外の各国共産党に対しても,たとえば1950年から51年にかけて,日本共産党の平和革命論(野坂理論)を批判したり,党内論争にも介入したが,これは日本共産党の戦術転換の契機となった。コミンフォルムは56年4月解散したが,そのきっかけは同年2月のソ連共産党第20回大会でのスターリン批判である。…
…1932年コミンテルン執行委員会が作成した日本共産党のテーゼ(今日の綱領的文書に相当)。日本共産党は1931年4月〈政治テーゼ草案〉を起草し,当面の革命の性質をプロレタリア革命であるとしたが,満州事変勃発の情勢のもとで正しくないという批判を招いた。…
…1952年半ばに日本共産党が山村地帯に〈遊撃隊〉をつくる目的でおこなった組織活動。日本共産党では1951年2月,コミンフォルム,中国共産党が50年1月におこなった同党批判を承服した〈所感派〉が第4回全国協議会を開き,〈当面の基本的闘争方針〉を採択した。…
…これに対し山川均は,《社会主義研究》を1919年創刊し,マルクス主義を掲げてロシア革命とボリシェビズムの系統的な紹介を行った。この山川の影響の下,コミンテルンと結びついて22年に日本共産党が組織される。山川は普選運動への参加には反対しながら,無産階級の政治闘争を主張したのである。…
…また,07年には山川均によって《資本論》第1巻の紹介が行われている。しかし,マルクスの思想が本格的に紹介されるようになったのはロシア革命(1917)以後であり,22年には〈日本共産党〉(委員長堺利彦)が結成され,コミンテルン第4回大会において承認された。 昭和に入ると,福本和夫,三木清,河上肇などによるマルクス論が左翼的インテリのあいだで強い影響を及ぼすようになり,28年(昭和3)には世界で最初の改造社版《マルクス・エンゲルス全集》の刊行が開始された(全27巻30冊,補巻1,別巻1。…
…戦前日本共産党の合法機関紙。1924年解党した日本共産党の再組織運動の過程で結成された〈コミュニスト・グループ〉によって,25年9月20日創刊された(週刊)。…
※「日本共産党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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