ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
日本共産党
にほんきょうさんとう
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(星浩 朝日新聞記者 / 2007年)
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日本の共産主義政党。1922年(大正11)に結成され、日本の政党のなかでは、第二次世界大戦前・戦後を通じて同一の党名でもっとも長く存続し、もっとも古い歴史をもつ。第二次世界大戦前の23年間は非合法状態にあり、さらにその半分である1935年(昭和10)から1945年までの10年間は中央委員会が破壊され、組織的活動は中断された。共産党が国民の前に公然と姿を現し、合法的に活動を開始するのは、敗戦後のことである。
[田口富久治]
共産党の創立大会は、公式党史上は、1922年7月15日、渋谷・伊達(だて)町の一民家で開かれたとされている。その母体は、前年4月結成の日本共産党準備会であった。党の創立は、1922年末に開かれたコミンテルン第4回大会で正式に承認され、「コミンテルン日本支部日本共産党」が成立した。
1923年6月の第一次検挙(第一次共産党事件)と引き続く9月の関東大震災での虐殺事件で動揺した共産党古参幹部は、翌1924年3月、解党を決議した。しかしコミンテルンの指導もあって、1926年12月、山形県五色(ごしき)温泉での第3回大会で党は再組織され、1928年2月からは非合法機関紙『赤旗(せっき)』も発刊された。その直後、1928年3月15日の「三・一五事件」、1929年4月16日の「四・一六事件」と相次いだ大弾圧によって、党は大きな打撃を被った。「満州事変」の始まった1931年から1932年10月の一斉検挙(熱海事件(あたみじけん))までが、戦前において共産党がもっとも発展した時期であり、最大時党員数約500名、『赤旗』7000部を記録した。しかし、1933年以降の党幹部の相次ぐ転向、当局の取締りの強化やスパイ・挑発政策、方針上の不十分さもあって党内に分派を生じ、党勢力は急速に弱体化していく。1935年3月、最後の中央委員の検挙によって、党中央委員会は最終的に壊滅した。1935年7~8月、コミンテルン第7回大会で決定された反ファシズム人民戦線の方針は野坂参三(さんぞう)らによって日本に伝えられ、国内でも、共産主義者グループによる人民戦線運動や党再建が試みられたが、結局成功するには至らなかった。
第二次世界大戦前の共産党は、綱領草案、「二七年テーゼ」、「三二年テーゼ」、「日本の共産主義者へのてがみ」などの綱領的指針に基づいて活動を進めた。これらのなかで、天皇制の廃止、18歳以上男女普通選挙権、土地解放、朝鮮・台湾・中国からの軍隊の撤退、侵略戦争反対などの平和と民主主義の要求が掲げられた。党の基本戦略は、ブルジョア民主主義革命から社会主義革命に発展転化する二段階革命路線であった。
[田口富久治]
1945年(昭和20)10月10日、占領軍の指令で徳田球一、志賀義雄(よしお)らの共産主義者が出獄し、共産党は公然活動に乗り出した。同年12月の第4回党大会で再建された共産党は、ポツダム宣言の完全実施、軍国主義の一掃と民主化の徹底を要求した。戦後急速に発展した労働運動面では産別会議を指導下に置き、また1946年の野坂の帰国を機に盛り上がった民主人民戦線運動で指導性を発揮し、大衆的影響力を拡大した。1949年1月の総選挙では35名の当選を果たすまでに力を強めた。ところが、1950年1月のコミンフォルムの論評など外国からの干渉、6月の占領軍による党幹部の追放とレッド・パージ、さらに情勢評価と方針の混乱や家父長的・官僚的指導などによって党は分裂・混乱し、徳田ら「主流派」は軍事方針など極左冒険主義的戦術を実施したため、1950年以降党勢は著しく後退した。1955年7月に開かれた第6回全国協議会は、武装闘争を放棄し、党の統一を回復した。その後1958年7~8月の第7回党大会を経て、1961年7月の第8回党大会で、統一戦線に基づく反帝・反独占の民主主義革命を経て社会主義革命を達成するという綱領を採択し、中央委員会議長に野坂、書記長に宮本顕治(けんじ)を選出した。
綱領路線確定後の日本共産党は、1970年代中葉まで順調な発展を示した。これには、中ソ論争や文化大革命に対する態度などで示された「自主独立路線」確立の努力、議会と選挙を政治変革の展望のなかに位置づける「人民的議会主義」の提唱、そしてなかんずく機関紙『赤旗(あかはた)』の拡大を中心とする近代的政党組織づくりの成功と厳しい党規律の確保などが寄与したといえよう。こうして1970年7月の第11回党大会では革新統一戦線と民主連合政府の構想を提示し、1973年11月の第12回党大会では、「民主連合政府綱領についての日本共産党の提案」を採択した。
1970年代後半以降の新情勢の展開のなかで、党勢は、国会議席数、得票数、得票比率(10%前後)、党員数、機関紙読者数などで横ばいないしジグザグを示しており、また1980年代になって明確となった中道諸党の「右寄り」と社会党の「現実化」によって政界レベルでは孤立を深めた。しかし「戦後第二の反動攻勢に抗して」情勢を打開するため、1981年5月には「全国革新懇」(平和・民主主義・革新統一を進める全国懇談会)が結成され、1986年5月には党のイニシアティブで「非核の政府を求める会」も発足した。
1990年代に入って、ソ連・東欧などの国権社会主義(国家権力と癒着した共産党一党独裁の国家形態)の解体が相次ぎ、名誉議長野坂参三の除名はあったが、日本共産党はさほど大きな打撃を受けなかった。1993年(平成5)総選挙での自民党の後退のあと、非自民8派による連合政権、次に一転して自民・社会・さきがけの三党連立による村山政権、橋本政権へと続き、自民党が党勢を回復した反面、野党の多元化と分裂が続いた。そのなかで、日本共産党は「唯一の野党」を唱えて、全国選挙・地方選挙(とくに首長選挙)で党勢を拡大した。1998年7月の参院選では躍進し、23議席となって、野党第二党の地位を占めた。しかし、2000年代に入ると、自民党と民主党を軸とする二大政党制への動きが進展し、各種選挙において苦戦が続いている。なお、1966年の日中両党会談をきっかけに絶交状態にあった中国共産党とは、1998年、当時副主席であった胡錦濤(こきんとう/フーチンタオ)と委員長であった不破哲三(ふわてつぞう)らの交渉により関係改善へと向かった。
共産党の現勢は、2006年現在で、党員数約40万、機関紙読者数164万。2009年現在、国会議員数衆院9名、参院7名、地方議員数は3050人。1997年、第21回党大会を前に、前議長宮本顕治は引退し、幹部会委員長は不破哲三、書記局長は志位和夫(しいかずお)となり、2000年の第22回党大会で議長は不破哲三、委員長は志位和夫、書記局長は市田忠義(いちだただよし)となった。2006年の第24回党大会で委員長の志位和夫、書記局長の市田忠義は留任、不破哲三は議長職を退いた。2010年の第25回党大会で、志位、市田は再任された。
[田口富久治]
『日本共産党中央委員会著『日本共産党の七十年』全3冊(1994・新日本出版社)』▽『日本共産党中央委員会編・刊『日本共産党の八十年 1922~2002』(2003)』
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…1928年に創刊された日本共産党中央機関紙。ただし,第2次大戦前は一般に〈せっき〉と呼ばれた。…
…ソ連共産党が和解の手を差しのべたのは,スターリンの死後であり,第一書記に就任したフルシチョフは55年5月ベオグラードを訪問,ユーゴスラビア共産党に加えられた数々の侮辱を詫びた。ヨーロッパ以外の各国共産党に対しても,たとえば1950年から51年にかけて,日本共産党の平和革命論(野坂理論)を批判したり,党内論争にも介入したが,これは日本共産党の戦術転換の契機となった。コミンフォルムは56年4月解散したが,そのきっかけは同年2月のソ連共産党第20回大会でのスターリン批判である。…
…1932年コミンテルン執行委員会が作成した日本共産党のテーゼ(今日の綱領的文書に相当)。日本共産党は1931年4月〈政治テーゼ草案〉を起草し,当面の革命の性質をプロレタリア革命であるとしたが,満州事変勃発の情勢のもとで正しくないという批判を招いた。…
…1952年半ばに日本共産党が山村地帯に〈遊撃隊〉をつくる目的でおこなった組織活動。日本共産党では1951年2月,コミンフォルム,中国共産党が50年1月におこなった同党批判を承服した〈所感派〉が第4回全国協議会を開き,〈当面の基本的闘争方針〉を採択した。…
…これに対し山川均は,《社会主義研究》を1919年創刊し,マルクス主義を掲げてロシア革命とボリシェビズムの系統的な紹介を行った。この山川の影響の下,コミンテルンと結びついて22年に日本共産党が組織される。山川は普選運動への参加には反対しながら,無産階級の政治闘争を主張したのである。…
…また,07年には山川均によって《資本論》第1巻の紹介が行われている。しかし,マルクスの思想が本格的に紹介されるようになったのはロシア革命(1917)以後であり,22年には〈日本共産党〉(委員長堺利彦)が結成され,コミンテルン第4回大会において承認された。 昭和に入ると,福本和夫,三木清,河上肇などによるマルクス論が左翼的インテリのあいだで強い影響を及ぼすようになり,28年(昭和3)には世界で最初の改造社版《マルクス・エンゲルス全集》の刊行が開始された(全27巻30冊,補巻1,別巻1。…
…戦前日本共産党の合法機関紙。1924年解党した日本共産党の再組織運動の過程で結成された〈コミュニスト・グループ〉によって,25年9月20日創刊された(週刊)。…
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