ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ココ・テムル」の意味・わかりやすい解説
ココ・テムル(拡廓帖木児)
ココ・テムル
Kökö Temür
[没]1375. ハラ・ノハイ
元の軍閥。河南のウイグル人。漢名を王保保という。モンゴル名ココ・テムルは順帝から賜わったもの。チャガン・テムルの甥でその養子となり,1362年養父が益都で田豊,王士誠に殺されると代ってその軍を率い,山東,河南,陝西を押え,太原をうかがう大同のボロト・テムル (孛羅帖木児)と争った。至正 25 (1365) 年皇太子アーユシュリーダラ (愛猷識理達臘)を奉じて大都に入り,ボロト・テムルを滅ぼして河南王に封じられた。まもなくその軍中に分裂を生じ,洪武1 (68) 年明軍が北上してくると,太原を捨てて甘粛に走り,カラコルムに拠った。同5年明の徐達の軍を撃滅したが,のちアルタイ山のハラ・ノハイで死んだ。
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