コソボの戦(読み)コソボのたたかい

改訂新版 世界大百科事典 「コソボの戦」の意味・わかりやすい解説

コソボの戦 (コソボのたたかい)

1354年以来バルカンに進出していたオスマン朝が,トラキアブルガリアを平定してセルビアに迫った89年,セルビアの有力者ラザルLazar公がボスニア王トブルトコTvrtkoやワラキア公ミルチャMirceaらの支援を得てムラト1世のオスマン軍と戦った戦闘。セルビア側は敗れたが,その原因としては,西欧諸国がペストや農民戦争や百年戦争のために支援しえなかったこと,教皇の無力,ベネチアとジェノバの対立,ビザンティン帝国衰退のほか,バルカン諸国内部での封建社会の停滞性や政治的・宗教的(キリスト教とボゴミル派分裂が重要である。この戦いの後,セルビア,ブルガリア,マケドニアなど,ドナウ川以南の大部分は,オスマン帝国の支配下に入った。しかし,オスマン支配は,その農村政策や宗教政策の点でバルカンの民衆にとっての〈解放〉を意味する場合があったことや,レバント貿易の安定的再開をもたらしたことに注意すべきである。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のコソボの戦の言及

【十字軍】より

クレルモン会議(1095)で教皇ウルバヌス2世により宣言された第1回十字軍以来,チュニスで敗退した最終回(1270)まで何回かにわたって西欧キリスト教徒の軍団が行った中近東各地への軍事遠征。広義にはイベリア半島,イタリア,地中海の島々などをイスラムの支配下から解放する11世紀後半からの戦いや,公式遠征に数えられていない自発的民衆巡礼団の軍事行動および中近東の十字軍国家を起点とする近隣諸地域への進出行為などの総称とされ,13世紀末以降16世紀にまで続けられたキリスト教諸国民とオスマン帝国を中心とするイスラム諸勢力との戦い(1389年のコソボの戦,1526年のモハーチの戦など)をも十字軍の名でよぶ見方もある。
【起源――十字軍運動】
 ヨーロッパのほぼ全域を渦中にまきこみ,数世紀にわたって持続した東方進出の気運は,その根元に社会経済的要因と精神的動機をもっている。…

※「コソボの戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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