レバント貿易(読み)レバントぼうえき

改訂新版 世界大百科事典 「レバント貿易」の意味・わかりやすい解説

レバント貿易 (レバントぼうえき)

レバント(英語,ドイツ語,フランス語Levant,イタリア語Levanto)とは,西ヨーロッパから見て〈日の上る方向〉すなわち東方にあたる地中海東岸一帯を指す語で,13,14世紀のイタリア,フランスなどで成立した。シリアレバノンなどを中心とし,ギリシアトルコ,あるいはエジプトを含める。つまりレバント貿易とは東西貿易,西ヨーロッパから見た東方貿易を指す。地中海の東と西が一つの世界に結合されていたローマ帝国の時代についてはこの概念は存在しない。西ヨーロッパに都市が成長し,ビザンティン帝国やイスラム世界との間に活発な通商関係が成立した時期について初めてこの概念が生ずるのである。また,このような東西間の貿易は,ちょうど近・現代の国家間の貿易になぞらえて理解されてきた。西ヨーロッパを一つの国と考え,東方とくにイスラム世界をそれに対抗するもう一つの国として把握し,その間の貿易関係,商品の動きと収支について分析する。商品としてとくに重要なのは,アジアやアフリカの産物であるコショウ,ショウガ,ニッケイ,チョウジなどの香料,染料,絹,象牙などの〈東方物産〉であった。西ヨーロッパがこれらの貴重な商品をどのようにして入手したか。以上がレバント貿易という用語の背景にある観念であった。

 中世前期の西ヨーロッパは〈東方物産〉を輸入し,毛皮,木材,金属類とくに刀剣,奴隷などを輸出したが,交易量は多くなかった。11,12世紀の西ヨーロッパの経済発展にともなう人口増大と生活水準の向上のため需要が増大し,香料や綿花などの輸入量が増大した。しかし西ヨーロッパ側が輸出すべき適当な商品がなく,全体として入超であった。その結果,金が西方から東方へ流出した。しかし西ヨーロッパが開拓した北アフリカ市場は出超であり,西スーダンの金がヨーロッパに流入した。13,14世紀になると,西側はフランドル産およびイタリア産の毛織物という強力な輸出商品を開拓し,レバント貿易の基本的形態が成立した。その結果,レバント貿易の数量はかつてないほどの水準に到達した。紙や蠟,砂糖,ミョウバン,サフランなど,かつてイスラム世界の特産であったものが,エーゲ海の島やイタリア,南フランスなどで生産されるようになり,地中海の貿易は著しく多角化した。13世紀末にはジブラルタル海峡がキリスト教徒側の勢力下に入り,ジェノバベネチアイングランド,フランドルとが直接に船によって結ばれるようになった。また,13世紀末から14世紀前半において,イル・ハーン国,キプチャク・ハーン国の勢力が黒海沿岸に達し,この地域に商業路が集中した。そして西ヨーロッパから地中海,黒海を経てはるかアジアに至る通商網が発展した。この時期にはレバント貿易におけるシリアやエジプトの重要性はやや低下したが,14世紀後半の〈モンゴル帝国〉の解体によって,再び貿易の中心となった。シリア,エジプトからの香料,西ヨーロッパの毛織物が最も重要な商品であったが,そのほかに多数の地域的商品があり,多角的な交易が行われていた。13世紀後半にジェノバ,フィレンツェ,ベネチアなどのイタリア都市で製造された金貨は国際的な決算手段として広く利用され,とくにベネチアのドゥカート金貨はイスラム世界へ浸透したといわれる。1348-49年の〈黒死病〉はレバント貿易にも大きな影響を与えた。労働力不足を補うために地中海,黒海の奴隷貿易はむしろ活況を呈したといわれているが,全体としては購買力の衰退とともに取引量も減少し,イタリア,南フランス,カタルニャの商人たちは互いに激しく争った。その中でベネチアはレバント貿易の国家管理と合理的な商業制度を確立してこの競争で優位を占め,イスラム世界と西ヨーロッパを結ぶ最大の窓口となった。

 バスコ・ダ・ガマのインド航路の開発によって,16世紀初頭には東アジアのコショウやチョウジなどの香料が直接ポルトガル船によって西ヨーロッパに運ばれるようになった。しかし,インド航路は距離があまりにも長く不安定であったため,1520年代からレバント経由の香料貿易が復活した。16世紀末に至るまでポルトガル船が運ぶのとほぼ同量の香料が,地中海経由で西ヨーロッパへ運ばれたといわれている。17世紀にはイギリス,オランダの船舶が地中海へ進出し,イタリアやカタルニャの船をしのぐようになった。とくにイギリスは東・中央ヨーロッパへの毛織物輸出の不振を挽回(ばんかい)するべく,薄手毛織物(ウーステッド)を生産し,これをトルコ市場へと大量に売り込むことに成功した。また,イギリスの東インド会社,オランダの東インド会社による植民地経営によって,アジアの特産品が直接西ヨーロッパにもたらされるようになり,レバント貿易はその役割を終えることになった。以上のように,本来レバント貿易は中・近世における地中海の東西交易として把握されてきたが,南ヨーロッパやイスラム地域(とくにエジプト)の経済史についての研究の進展により,より多角的な交易として構造的に理解されるようになりつつある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「レバント貿易」の意味・わかりやすい解説

レバント貿易
レバントぼうえき
Levant trade

東方貿易とも呼ばれる。 11世紀以来のいわゆる「商業の復活」からヨーロッパとレバント地方との間で行われた貿易。小アジアの東地中海沿岸に運ばれた香料,織物,奢侈品などアジアの物産を,主として北イタリアの都市 (特にベネチア) 商人が銀 (おもに南ドイツ産) ,毛織物などと交換してヨーロッパに伝えた。この遠隔地商業によってイタリア商人は巨利を得たが,15世紀に入りオスマン・トルコがレバント地方に進出,15世紀末から 16世紀にインド航路開拓により直接貿易が発展した。またイギリス商人の毛織物貿易への参入などもあって,ベネチアの独占は終り,東西貿易におけるレバント貿易の比重も後退した。

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百科事典マイペディア 「レバント貿易」の意味・わかりやすい解説

レバント貿易【レバントぼうえき】

レバント(英語,ドイツ語,フランス語Levant,イタリア語Levanto)は〈日の上る方向〉の意で,中世後期の西欧とその東方,シリアや小アジア方面との貿易をいう。11―12世紀以降ベネチア,ジェノバなどのイタリア商人が主として従事。東方のコショウなどの香辛料のほか絹・綿織物などを,西方の銀や毛織物などと交換した。この貿易は16世紀の新航路発見により衰微。
→関連項目東方貿易

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