改訂新版 世界大百科事典 「小宅荘」の意味・わかりやすい解説
小宅荘 (おやけのしょう)
播磨国揖保郡にあった荘園。今の兵庫県竜野市東部一帯の地域。小宅郷の荘園化したもので,東西は14条,15条の2条だが,南北は16坊から10坊の7坊にわたる細長い荘園。立荘の時期や事情は不明だが,鎌倉時代の末ごろ京都大覚寺の所領。惣荘方と三職方(さんしきかた)とに分かれ,三職方は67町3段30代,惣荘方はその約4倍の面積を占め,両者は錯綜して入り組んでいた。1325年(正中2)10月大納言中御門経継は当荘三職方を次第証文を添えて大徳寺に寄進し,30年(元徳2)8月後醍醐天皇が安堵の綸旨を与え,34年(建武1)8月に国司守護使の入部を禁じ役夫工米(やくぶくまい)などの諸役を停止(ちようじ)し一円不輸の寺領とする官宣旨が出されて,大徳寺の所領として確定した。大覚寺はこれに異を唱えて出訴したが,替地を得ることで落着した。三職方については開発領主朝昌法師と中御門家との間に鎌倉時代から紛争があり,1297年(永仁5)に和与(わよ)が成立していたが,朝昌法師の子孫貞興と大徳寺との間で紛争が再発し,1350年(正平5・観応1)6月両者折半して領有するよう裁決された。貞興は赤松貞範の援助で押領を続け,66年(正平21・貞治5)貞興の子貞宗が当荘から追放されて大徳寺の一円領掌が確定した。大徳寺はその後も近隣武士の蚕食に悩んだ。1474年(文明6)には安積兵庫助が三職方は醍醐三宝院領と号して年貢を未進し,81年には大塩右京進の違乱が,90年(延徳2)には赤松性喜入道政秀の押領が相ついだが,大徳寺は浦上則宗の援助でこれらを退けて三職方を確保した。その後は半ば竜野赤松氏の所領化して解体した。1354年(正平9・文和3)3月作成の荘園絵図がある。荘内には市場があり,鎌倉時代に小宅宿と呼ばれる宿場町として栄えたことも注目される。
執筆者:石田 善人
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報