コベント・ガーデン王立歌劇場(読み)こべんとがーでんおうりつかげきじょう(英語表記)Royal Opera House, Covent Garden

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

コベント・ガーデン王立歌劇場
こべんとがーでんおうりつかげきじょう
Royal Opera House, Covent Garden

イギリスの代表的オペラ・ハウス。正式名称はロイヤル・オペラハウス。コベント・ガーデン、コベント・ガーデン劇場とも通称される。劇場が位置するコベント・ガーデンは、ロンドン中央部の地区名で、コベントは中世英語で「修道院」の意(今日のコンベントconventにあたる)。13世紀には、ウェストミンスター寺院の修道士たちの菜園のあった場所で、のちロンドンの野菜・果物・草花の卸し市場として、1975年の移転までにぎわった。ここに劇場がつくられたのは1732年のことで、当時は演劇を主体としたが、ヘンデルのオペラが上演されている。ゴールドスミスの『負けるが勝ち』など、イギリスの演劇史に輝く多くの名作がここで初演された。1808年失火で焼失翌年再建され、47年からオペラ専門の劇場となったが、56年またもや焼失。現在の建物は3番目にあたり、エドワード・バリーEdward Middleton Barry(1830―80)の設計で1858年に完成した。正面に堂々たるコリント式列柱廊をもち、客席数は2158で、音響効果がすばらしいことでも名高い。1924年から31年にかけてブルーノ・ワルター指揮、ロッテ・レーマン、エリーザベト・シューマンらの歌手によるドイツ・オペラの上演は歴史に残る名演とされている。第二次世界大戦中は一時ダンスホールとして用いられたが、1946年再開後は、ロイヤル・オペラ、ロイヤル・バレエ団(旧サドラーズ・ウェルズ・バレエ団)の本拠地となった。オペラではクーベリックショルティデービスハイティンク(1987以後)を音楽監督に迎え、ブリテンの作品など自国のオペラを含めた質の高い上演が続けられている。90年代に入り、大がかりな改装工事を行って99年に再オープンした。2002年からは指揮者アントニオ・パッパーノAntonio Pappano(1959― )が音楽監督に就任

[美山良夫・紅山雪夫]

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世界大百科事典(旧版)内のコベント・ガーデン王立歌劇場の言及

【オペラ】より

…1875年,現在の劇場完成(1862着工,2167席,建築設計C.ガルニエ)。 コベント・ガーデン王立歌劇場Covent Garden Opera London1732年創立(オペラハウスではなかった),建築設計J.リッチ。初演1732年12月7日,W.コングリーブの戯曲《世の習い》。…

【国立劇場】より

…国家の文化政策,そしてそれに基づいての国家財政あるいは財政的援助によって,創設・管理・運営される劇場を中心にした演劇組織。多くの場合に,上演場所としての劇場と上演集団たる劇団そのほかが,一体のものとしてともに組織され,運営される。したがって,その劇団と劇場の両方が,総称としての同じ一つの名前(西欧のものが日本語に訳された場合には〈○○劇場〉などの名称)で呼ばれることが多い。
【ヨーロッパ】
 西欧における国立劇場の歴史は古く,その多くはいわゆる〈宮廷劇場〉の系譜に連なり,また重なるものとしてあるが,国家が経済・芸術上の管理・運営の責任者=パトロンとなった屋内ホールの国立劇場の嚆矢(こうし)は,1680年パリに誕生した〈コメディ・フランセーズ〉である。…

【ローヤル・バレエ団】より

…さらに,英国バレエの確立をめざして,ド・バロアみずから作品を作る一方,アシュトンを振付師として登用した。 第2次大戦後M.フォンテインをはじめB.グレー,M.シアラーらすぐれた踊り手が輩出し,46年2月コベント・ガーデン王立歌劇場での《眠れる森の美女》上演を皮切りに,古典およびアシュトン,J.クランコK.マクミランらが振り付けた作品がそろい,英国のナショナル・バレエを築き上げた。バレエ団の本拠は同年からコベント・ガーデン劇場に移ったが,現在も別組織でサドラーズ・ウェルズ劇場を使用している。…

※「コベント・ガーデン王立歌劇場」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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