アメリカの映画音楽作曲家、指揮者。ロサンゼルス生まれ。本名ジェラルド・ゴールドスミスJerrald Goldsmith。170本を超える担当作品と個性的な劇音楽作曲法で、ハリウッドのみならず全世界に信奉者を生んだ。当初はピアニストを目指し、12歳でジャコブ・ギンペルJakob Gimpel(1906―1989)にピアノを、16歳でマリオ・カステルヌオーボ・テデスコに作曲理論と対位法を師事。1945年、ミクロス・ローザMiklos Rozsa(1907―1995)が作曲した『白い恐怖』の音楽に衝撃を受け、映画音楽作曲家を志す。ロサンゼルス市立大学に進学後、南カリフォルニア大学の夏季講習でローザの講義を受ける。1950年CBS放送局にタイピストとして入社。その後、同局の音楽部に転属となり、はじめラジオ音楽を、次いで「ガンスモーク」(1955~1960)、「ミステリー・ゾーン」(1959~1965)などのテレビ音楽を手がけ頭角を現す。
念願の長編映画音楽作曲第一作は1957年の西部劇『Black Patch』(日本でのテレビ放映題名「片目のシェリフ」)。1960年CBS退社後、20世紀フォックス音楽部長だったアルフレッド・ニューマンAlfred Newman(1901―1970)に認められ、同社の作品を中心につぎつぎと映画音楽を手がけはじめる。
初のアカデミー作曲賞候補となった『フロイド、隠された欲望』(1962)や『いつか見た青い空』(1965)で確かなドラマ表現をみせた後、1966年の戦争大作『砲艦サンパブロ』および『ブルー・マックス』でスケールの大きいオーケストラ・スコアを披露し、知名度を増す。
1968年、音楽に造詣が深かったフランクリン・J・シャフナーFranklin J. Schaffner(1920―1989)監督の『猿の惑星』を手がけ、セリー技法に基づく前衛的なスコアを展開して大きな反響を呼んだ。その後、シャフナーとは『パットン大戦車軍団』(1970)、『パピヨン』(1973)、『海流のなかの島々』(1977)、『The Boys From Brazil』(1978、日本ではテレビ放映およびビデオ発売。邦題『ブラジルから来た少年』)などで、監督の演出意図と作曲家の音楽設計が見事な調和を生みだす映画音楽の醍醐味(だいごみ)を世に知らしめることとなった。このほか、2台の琴にテーマを演奏させて日本人観客の注目を浴びた『トラ・トラ・トラ!』(1970)、わずか10日間の作曲期間という悪条件をいささかも感じさせないジャズ・スコアの古典『チャイナタウン』(1974)、中近東の打楽器を大幅に取り込んだ異国趣味溢れる英雄讃歌『風とライオン』(1975)、グレゴリオ聖歌にヒントを得た黒ミサ風の音楽で初のアカデミー最優秀作曲賞を受賞した『オーメン』(1976)、ロマンティックなオーケストラ・スコアが一種のバレエ音楽として機能した『スター・トレック』(1979)、特殊奏法と無調音楽の使用で恐怖を煽(あお)った『エイリアン』(1979)と、1970年代の担当作品はそのほとんどすべてが独創的な音楽表現を達成した野心作ばかりである。年5~6本のペースでこうした名スコアを生み出していった事実も含め、ゴールドスミスの創作の頂点が1970年代にあるといっても過言ではない。
1980年代に入ると、ゴールドスミス音楽を信奉する若い世代の監督、プロデューサーから作曲の依頼が増えたため、娯楽大作の音楽を多く引き受けるが、これによってゴールドスミスの作曲語法の引き出しの多さを世に示すこととなり、ファンの数を増やす結果となった。プロデューサー、アンドリュー・G・バイナAndrew G. Vajna(1944― )製作によるアクション映画の音楽としては『ランボー』シリーズ(1982~1988)および『トータル・リコール』(1990)。20年近くにわたってコンビを組み続けるジョー・ダンテJoe Dante(1946― )監督とは『トワイライトゾーン/超次元の体験』(1983)および『グレムリン』(1984)。これらの作品が1980年代のゴールドスミスの代表作として評価も高い。本格的にシンセサイザーに取り組みはじめたのも1980年代のゴールドスミスの特徴で、1985年の『未来警察』でオール・シンセサイザー・スコアを発表、ファンを驚かせた。パット・メセニーPat Metheny(1954― )をギター独奏に起用したフォルクローレ風のスコア『アンダー・ファイア』(1983)も忘れがたい。1990年代以後は職人気質を示した手堅い作品を多く発表、『トータル・リコール』が縁でコンビを組みはじめたポール・バーホーベンPaul Verhoeven(1938― )監督の『氷の微笑』(1992)および『インビジブル』(2000)、17回目のアカデミー作曲賞候補となった『L. A. コンフィデンシャル』(1997)や初のディズニー・アニメ『ムーラン』(1998)、オペラ的な声楽の使用を試みた『トータル・フィアーズ』(2002)などで変わらぬ健在ぶりを示した。
映画音楽以外には、演奏会用作品にカンタータ「クリストゥス・アポロ」(1969)、「管弦楽のための音楽」(1971)など。1971年ころからオーケストラの客演指揮者としても活躍、ロンドン交響楽団を指揮したSACD(スーパーオーディオ・コンパクトディスク)録音の2枚のディスク(2001、2002)が話題となった。1998年(平成10)、2000年に神奈川フィルハーモニー管弦楽団を客演指揮。
[前島秀国]
『賀来タクト著「ジェリー・ゴールドスミス」(『サウンドトラックGoldmine――70人の映画音楽家たち』所収・1997・音楽出版社)』
イギリスの詩人、小説家、劇作家。11月10日、アイルランドの牧師の子として生まれる。ダブリン大学を苦学して卒業。しばらく僧職につくための準備をしていたが、のちに医学を学ぶためエジンバラやライデンの大学へ行くが業を終えず、大陸を転々として1756年ロンドンに無一文で戻ってくる。以後、三文文士として売文を業とするが、1760年から雑誌に寄稿した「中国人の手紙」という形式による随筆が人気を博し、これがのちに『世界の市民』(1762)と題して出版された。彼の名声はあがり、サミュエル・ジョンソン(ジョンソン博士)の文学クラブの一員になった。長詩『旅人』(1764)、小説『ウェークフィールドの牧師』(1766)、喜劇『お人好し』(1768)が次々と発表され、それぞれ好評で、彼の作家的地位を不動にした。しかしこの人気にもかかわらず、相変わらずの貧乏暮らしであった。
彼はさらに甘美な感傷を示した詩『寒村行』(1770)や、喜劇『負けるが勝ち』(1773)で優れた才能を示したが、一方多くの伝記や『イギリス史』(1764)を書き、生活のための売文を行っている。1774年4月4日ロンドンで没。彼には間の抜けた面と天才的な鋭い面とが混在し、そこに人をひきつける魅力があった。
[榎本 太]
イギリスの詩人,劇作家,小説家。牧師の子としてアイルランドに生まれ,ダブリンのトリニティ・カレッジに学び,後にエジンバラやオランダのライデンの大学で医学を修め,大陸を転々とし,1756年にロンドンに帰る。以後,下働きの文筆家となり雑誌に寄稿する。エッセイストとしての最もまとまった活動は一連の〈中国人の手紙〉で,後に《世界市民》(1762)として出版される。中国人がヨーロッパの風俗についてコメントを加えるという趣向で,すでにモンテスキューなどによって用いられた方法である。〈黒衣の人〉など特徴ある人物が登場する。
1764年に詩《旅人あるいは社会の展望》を発表,ヨーロッパをさまよう旅人が諸国の特質を叙している。一貫した主題として故郷に対する想いがあるが,これは次の詩《寒村行》(1770)にいたっていっそう明確に示される。そこでは〈なつかしいオーバーン〉に侵入する近代の産業主義を嘆いている。同様な牧歌的特質は小説《ウェークフィールドの牧師》(1766)にもみごとに示されている。64年からはジョンソン博士の文学クラブの一員となり,その人がらは多くの人から愛された。彼の名前をいっそう高くしたのは2編の喜劇,《お人好し》(1768)と《低く出て勝つ》(1773)である。これらはともに当時流行していた道徳的なお涙頂戴の〈感傷喜劇〉に反対の意図をもって書かれ,上演とともに成功をおさめた。しかし王政復古期の喜劇を復活することはできず,18世紀後半らしい温情の喜劇になっている。
執筆者:榎本 太
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
※「ゴールドスミス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新