シオドマク(英語表記)Robert Siodmak

改訂新版 世界大百科事典 「シオドマク」の意味・わかりやすい解説

シオドマク
Robert Siodmak
生没年:1900-73

フィルムノワール巨匠〉として知られるドイツおよびアメリカの映画監督。両親(父はライプチヒの銀行家)が旅行滞在中のアメリカのテキサス州メンフィスで生まれる。舞台の俳優,演出家,プロデューサーから,1925年,アメリカ映画のドイツ語版の字幕制作者としてウーファ社に入り,助監督,編集者,脚本家を経て,29年,記録映画の手法による実験的な長編《日曜日の人々》をエドガー・ウルマー(1904-72)と共同監督。脚本に協力したビリー・ワイルダー,撮影に協力したオイゲン・シュフタン(1893-1977)とフレッド・ジンネマンの映画界における出発点となった作品でもある。その後,もっぱら〈サスペンススリラー〉をつくるが,ユダヤ人であるために《激情の嵐》(1932)が不健全であるとゲッベルスに弾劾され,ナチスが政権を握った33年,フリッツ・ラングなどのユダヤ人芸術家と同じようにパリへ逃れ,《フロウ氏の犯罪》(1935)など数本のフランス映画を撮った。のち40年にハリウッドへ渡り,数本のB級映画を手がけたうえ,ウィリアム・アイリッシュ原作による《幻の女》(1944)で認められた。次いでジェームズ・ロナルド原作《容疑者》(1945),エセル・リナ・ホワイト原作《らせん階段》(1945),アーネスト・ヘミングウェー原作《殺人者》(1946)(シオドマクによれば,クレジットタイトルに名まえは出ていないが脚本を書いたのはジョン・ヒューストンであるという),H.E.ヘルセス原作《マーティン・ロームの電気椅子》の映画化《都会の叫び》(1948)等々,今日〈フィルム・ノワール〉,あるいは〈心理的スリラー〉と呼ばれるジャンルの古典になっている傑作をつくり,アルフレッド・ヒッチコックやフリッツ・ラングと並んで40年代ハリウッドの〈スリラー〉の代表的監督になった。ウーファ社時代に学んだドイツ映画のメロドラマと表現主義映画のスタイルの基礎を,ハリウッドの製作機構の中で当時のリアリズム志向の風潮に溶け込ませたそのセミ・ドキュメンタリー的手法は,〈ロケーション・リアリズム〉などと呼ばれて再評価の対象になっている。54年,ハリウッドにおける〈スリラー〉の退潮とともにフランスを経て西ドイツへ帰り,連続婦女殺人事件を主題に,精神異常者は抹殺されるべきであるとしたナチスの論理をあばいた作品《悪魔が来た夜》(1957)で注目されたが,その後は西ドイツとイタリアとアメリカの合作映画《地獄道28》(1962)やアメリカ映画《カスター将軍》(1968)といった数本をつくったのみであった。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のシオドマクの言及

【スリラー映画】より

…さらにヨーロッパからハリウッドへ亡命あるいは移住してきた若い監督たちが,そのみずみずしいヨーロッパ感覚で,それまでアメリカ映画にはなかったまったく異質の心理的スリラーをつくって大きな刺激を与えたこともあった。オットー・プレミンジャー監督の《ローラ殺人事件》(1944),フリッツ・ラング監督の《飾窓の女》(1944),ビリー・ワイルダー監督の《深夜の告白》(1945),ロバート・シオドマク監督の《らせん階段》(1945)等々がそれである。 いわゆる〈セミ・ドキュメンタリー〉の手法を用いたスリラー映画も流行し,FBIの記録にもとづく《Gメン対間諜》(1945),実際の殺人事件を描いた《影なき殺人》(1947),集団脱獄事件を描いた《真昼の暴動》(1947),殺人犯の追跡を描いた《裸の町》(1948),FBIの記録による《情無用の街》(1948)などがつくられ,ルイ・ド・ロシュモントLouis de Rochemont(1899‐1978)のセミ・ドキュメンタリー・スタイルのニュース映画《ザ・マーチ・オブ・タイム》(1935‐51)に示唆されたといわれるこれらの映画の傾向は〈ニュー・リアリズム〉ともよばれた。…

※「シオドマク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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