日本大百科全書(ニッポニカ) 「アメリカ映画」の意味・わかりやすい解説
アメリカ映画
あめりかえいが
フィルムを用いる今日の映画の前身は、アメリカにおいて発明された。エジソンが1889年、当時世界一といわれるフィルム会社の創立者ジョージ・イーストマンに注文してつくらせた活動写真機械「キネトスコープ」がそれである。ただし、これは一度に1人しか見ることのできない「のぞき眼鏡」式のもので、一般には「ピープ・ショー」とよばれ、大衆娯楽場や酒場などに置かれて人気があった。
[品田雄吉]
アメリカ映画の誕生
現在と同じように、映像がスクリーンに拡大映写される方式は、1896年にニューヨークのブロードウェーで公開された、エジソンの「バイタスコープ」から始まった。これがアメリカ映画の正式の誕生である(フランスのリュミエール兄弟のシネマトグラフがパリで公開されたのはその前年の1895年)。初期の映画は15~30メートル程度の一巻物で、ニッケル・オデオン(5セント劇場の意)と俗称される興行場で上映され、庶民層に大きな人気を得た。ニューヨークを中心とする東部の諸都市に製作会社が続々と生まれたが、とくにこの新しいビジネスに一攫千金(いっかくせんきん)を賭(か)けるユダヤ系の進出が活発だった。当初は幼稚な実写や寸劇のたぐいが多く、なによりも映写されたものが動くことの新奇さに、人々はひかれた。技術が進歩するとともに、上映時間も長くなり、表現にもくふうがこらされるようになった。エドウィン・S・ポーターは『アメリカ消防夫の生活』(1902)で、違った画面(ショット)をつないで組み合わせる「編集」の方法を考え出し、さらに続く『大列車強盗』(1903)では劇的な表現の先鞭(せんべん)をつけ、「大写し」(クローズ・アップ)の画面をつくりだした。
[品田雄吉]
ハリウッドの発展
雨の少ない西部のカリフォルニアが映画撮影に最適とみなされ、1911年から数年の間に、ロサンゼルス郊外のハリウッドに多くの撮影所が建設された。しかし、それは単に気候風土の条件がよかったからだけではなく、東部の映画会社が映画の特許権を盾にトラストを結成し、新規業者に過酷な条件を押し付けたことから、トラストの監視の目が届きにくい西部が選ばれたためでもあった。こうして、「夢の工場」とよばれるハリウッドの発展が始まり、ハリウッドの名はアメリカの映画の代名詞となっていく。また、出演俳優の人気を最大限に利用する映画の作り方、いわゆるスター・システムもこの時代に始まった。なお、作品面でもっとも注目されるのは、デビッド・ウォーク・グリフィスの業績で、アメリカ最初の長編映画『国民の創生』(1915)、『イントレランス』(1916)などにおいて、のちに映画文法の基礎となったカット・バック、フェード・アウト、フェード・インなどの表現手法を創始した。
第一次世界大戦はヨーロッパ映画界の停滞を招いたが、大戦の直接の影響を受けなかったアメリカ映画界は大いに発展し、西部劇、スラプスティック・コメディ、連続活劇などが盛んに製作された。そして、大戦後から1920年代後半にかけて、サイレント映画は黄金時代を迎えた。イギリスの寄席(よせ)芸人出身で、スラプスティック・コメディから独自の扮装(ふんそう)で頭角を現したチャールズ・チャップリンは、監督も兼ねて『黄金狂時代』(1925)などの古典的名作を発表、バスター・キートン、ハロルド・ロイドも喜劇スターとして一時代を画した。また西部開拓劇の佳作として、ジェームズ・クルーズJames Cruze(1884―1942)の『幌(ほろ)馬車』(1923)、ジョン・フォードの『アイアン・ホース』(1924)がつくられている。パラマウント、MGM、ワーナー・ブラザース、ユニバーサル、フォックス、コロンビアなど、今日のアメリカ映画の中核をなす、いわゆる「メジャー・カンパニー」の基礎が確立したのはこの時期である。そして、発展と膨張を続けるアメリカ映画界は、ヨーロッパ映画の優れた監督や俳優を積極的に招き、その活動をよりいっそう多彩なものとした。エリッヒ・フォン・シュトロハイム、エルンスト・ルビッチ、フリードリヒ・ウィルヘルム・ムルナウ、ビクトル・シェーストレーム、マウリッツ・スティルレル、ジョセフ・フォン・スタンバーグらの監督、グレタ・ガルボ、マレーネ・ディートリヒほかの俳優や女優が、アメリカ映画の国際的な性格を豊かなものにしていった。
[品田雄吉]
アメリカ映画産業の確立
伴奏音楽入りのサウンド版映画『ドン・ファン』(1926)、音楽ダンス場面同時録音の『ジャズ・シンガー』(1927)によってトーキー映画時代が始まる。それまで視覚だけに訴えてきた映画が音を獲得したのは、画期的な技術革新であった。このおかげで映画は、1929年にアメリカを襲った経済恐慌にもさしたる影響を受けず、「不況に強い」映画事業への大資本の進出を促した。一方、映画資本側にも、トーキー化のために多額の設備投資が必要となり、大資本の進出に頼らねばならない事情もあった。ヨーロッパ映画が、どちらかというと芸術主義的伝統を培っていったのに対して、アメリカ映画は当初から娯楽性が重視された。そして、音と強力な資本を得たアメリカの映画は、もっとも有力な大衆文化としての根を広げると同時に、きわめて巨大な産業として発展していった。トーキー初期は、方法論が確立されないために、舞台劇を模倣する傾向が強かったが、しだいに、音楽映画(ミュージカル映画)、西部劇、ギャング活劇、戦争活劇、写実的映画、漫画映画などといった映画独自の定型を確立していった。この時期の代表的な作品は、ルイス・マイルストーンの『西部戦線異状なし』(1930)、ジョセフ・フォン・スタンバーグの『モロッコ』(1930)、フランク・キャプラの『或(あ)る夜の出来事』(1934)、ウィリアム・ワイラーの『孔雀(くじゃく)夫人』(1936)、ジョン・フォードの『駅馬車』(1939)などである。そして、この時期のアメリカ映画の集大成として、ハリウッド的大作主義の頂点ともいうべき『風と共に去りぬ』(1939)と、アメリカ映画の芸術性の精髄ともいうべき、オーソン・ウェルズ監督主演の『市民ケーン』(1941)の2作をあげることができる。
サイレント映画時代にメリー・ピックフォード、ダグラス・フェアバンクス、ルドルフ・バレンチノ、グロリア・スワンソンらの人気スターを生み出したアメリカ映画は、トーキー時代に入ると、ゲーリー・クーパー、クラーク・ゲーブル、グレタ・ガルボ、マレーネ・ディートリヒ、クローデット・コルベール、バーバラ・スタンウィックBarbara Stanwyck(1907―1990)、ジョーン・クロフォード、ベティ・デービスらの大スターを輩出させた。とくに1930年代から1940年代にかけては、アメリカ映画のスター・システムがもっとも華やかに機能した。ハンフリー・ボガート、ヘンリー・フォンダら、トーキー化とともに演劇界から映画界に入ってきたスターも多く出た。逆にサイレント時代のスターでも、声が悪かったり、台詞(せりふ)がしゃべれなかったりして落後する者も出た。
[品田雄吉]
第二次世界大戦後の好況
第二次世界大戦中のアメリカ映画界は、全面的に国策に協力し、多くの戦意高揚映画や、戦時の市民および将兵に与える娯楽作品がつくられた。また、ヨーロッパからはナチズムに同調しなかったルネ・クレール、ジャン・ルノワール、ジュリアン・デュビビエ、ジャン・ギャバンらが、アメリカに逃れて映画活動をした。
第二次世界大戦後のアメリカ映画は、旧来どおり娯楽性豊かな作品を量産する一方、戦争という厳しい体験を反映して、リアリスティックな作品が目だつようになった。ナチスから逃れてアメリカに移ったビリー・ワイルダーの『失われた週末』(1945)、『サンセット大通り』(1950)、ワイラーの『我等の生涯の最良の年』(1946)、ジョゼフ・L・マンキウィッツの『三人の妻への手紙』(1949)、『イヴの総(すべ)て』(1950)、ジョン・ヒューストンの『黄金』(1948)、エリア・カザンの『波止場』(1954)などは、いずれもアメリカの現実をそれぞれの形で反映しており、かつて「夢の工場」といわれ、つねにハッピー・エンディング(幸福な結末)をうたい続けてきたハリウッド映画もしだいに変貌(へんぼう)してきた。ジョン・フォードの西部劇『荒野の決闘』(1946)は、古きよき時代の素朴な正義感とヒロイズムが描かれた秀作だが、アメリカ映画の精華ともいうべき西部劇も、1950年代に入ると、少しずつ偶像否定的傾向を帯びるようになっていく。
1950年代のアメリカ映画が当面した大きな問題は、急激に台頭してきたテレビへの対応だった。映画界は立体映画や3本のフィルムを横に並べて映写する「シネラマ」などによって、テレビの小さな画面を凌駕(りょうが)するスペクタクル(見せ物)性で映画の優位を保とうとした。1953年には、歪曲(わいきょく)レンズを使用して横長の大画面をつくる「シネマスコープ」方式が実用化されて大型映画時代が始まった。また、1930年代初期から散発的につくられていた色彩映画もこの時代に急速に普及した。もちろん、まだ白黒画面だったテレビに打ち勝つためである。また、1960年代に入ると、従来のフィルム幅を2倍にした70ミリ映画が実用化され、映画は大画面の迫力をさらに増すようになった。ロバート・ワイズの『ウェスト・サイド物語』(1961)、デビッド・リーンの『アラビアのロレンス』(1962)などは、その初期の代表的な作品である。さらに立体音響の開発などによって、そのスペクタクル性をいっそう増幅させていった。
[品田雄吉]
アメリカ映画の新しい波
こうした傾向は大作主義を促し、それに伴う製作費の膨張を抑制するために、アメリカ映画が、イタリアやスペインなどで製作されることが多くなった。一方、テレビ出身の作家が映画に進出するようになり、『十二人の怒れる男』(1957)のシドニー・ルメット、『終身犯』(1962)のジョン・フランケンハイマーなど、「ニューヨーク派」とよばれる作家たちの活躍も目だった。1950年代から1960年代にかけては、ハリウッドの撮影所を中心とした映画製作のシステムが徐々に解体していった時期であった。
1967年に、テレビ、舞台出身のアーサー・ペンが『俺(おれ)たちに明日はない』を発表し、次いで俳優のデニス・ホッパーが監督した『イージー・ライダー』(1969)が出るに及んで、「ニュー・シネマ」時代が始まった。これは従来のハリウッド方式に対する一種の反逆で、虚構のドラマ性よりも現実的な感覚による表現、ロケ撮影中心、反体制的テーマなどで新風を吹き込んだ。しかしこの傾向は、未熟でひとりよがりな作品を生む弊害をもたらし、あまりにも現実を直接に反映した内容が映画に夢と憩いを求める観客の離反を生む結果を招いた。
1970年代に登場したフランシス・フォード・コッポラ、スティーブン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカスら、新世代の監督たちは、それぞれ、『ゴッドファーザー』(1972)、『ジョーズ』(1975)、『スター・ウォーズ』(1977)で興行的に大成功を収め、作品的にも高い評価を受けた。彼らの特色は、映画本来の娯楽性を踏まえながら、ニュー・シネマが切り開いた新しい映画表現の可能性をさらに発展させようとしているところにある。
こうした映画自体の変化に伴って、アメリカ映画の表看板だったスター・システムも大きく変質した。美男美女時代は1940年代でほぼ終りを告げ、ロバート・テーラーRobert Taylor(1911―1969)やエリザベス・テーラーといった美男美女タイプよりも、マーロン・ブランド、ジェームズ・ディーン、オードリー・ヘップバーンらの個性派スターの時代が訪れる。マリリン・モンローは、ハリウッド最後のグラマー・スターだったといえるだろう。
[品田雄吉]
現状
今日では、スター・バリューで観客をよぶ時代はほぼ完全に過去のものとなった。しかし、自ら書いた脚本『ロッキー』をメジャー・カンパニーに売り込み、その映画化(1976)に自ら主演して大成功を収めたシルベスター・スタローンSylvester Stallone(1946― )のようなスターも生まれている。マスコミは彼をアメリカン・ドリームの体現者とよんだ。また、『ジョーズ』で商業的に大成功したスピルバーグは、アクション映画『インディ・ジョーンズ』シリーズ(1981~1989)やSF映画『E.T.』(1982)、『ジュラシック・パーク』(1993)などでも商業的にもっとも成功した監督となり、さらにナチ強制収容所を舞台にした『シンドラーのリスト』(1993)では待望のアカデミー作品賞および監督賞を受賞、その後、映画製作会社ドリーム・ワークスの主宰者の一人となって、アメリカ映画界の中心的存在にのしあがった。彼と同じような歩みを続けてきたジョージ・ルーカスは、『スター・ウォーズ』の続編を手がける一方で、特撮プロダクションのILM(Industrial Light & Magic:インダストリアル・ライト&マジック)社を創設して、アメリカ映画の特殊撮影関係で大きな存在となっている。
『ミッドナイト・エクスプレス』(1978)などで脚本家として活躍していたオリバー・ストーンは、1986年、ベトナム戦争の実態をリアルに暴き出した『プラトーン』でアカデミー監督賞を受賞、以後、『7月4日に生まれて』(1989)、『JFK』(1991)、『ニクソン』(1995)などで体制批判的な政治的映画を数多く発表している。人気スターのケビン・コスナーKevin Costner(1955― )は、西部劇の大作『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(1990)に主演・監督して、アカデミー作品賞、監督賞を受賞した。騎兵隊の将校がアメリカ先住民(ネイティブ・アメリカン)と親密になっていくというドラマには、自然との親和、白人の武力征服への疑問などが提示されて、従来の西部劇とはまったく違った内容をもつ作品となった。やはり人気スターから監督に進出したクリント・イーストウッドが主演・監督にあたって、1992年度のアカデミー作品賞、監督賞を受けた『許されざる者』も、西部開拓にまつわる贖罪(しょくざい)意識に貫かれた作品だったといえる。イーストウッドは、2004年度のアカデミー賞においても『ミリオンダラー・ベイビー』でアカデミー作品賞・監督賞を再度受賞、いまやアメリカ映画の代表的な監督となった。そしてさらにイーストウッドは2006年(平成18)に、第二次世界大戦で日本軍がほぼ全滅した硫黄島(いおうとう)の戦いを取り上げ、『父親たちの星条旗』ではアメリカの側から、『硫黄島(いおうじま)からの手紙』では日本の側から描く「二部作」を監督して、硫黄島の戦いの真実に迫った。なかでも、日本側から描いた『硫黄島からの手紙』はアメリカ映画であるにもかかわらず、出演者のほとんどが日本人で、話される台詞もほとんどが日本語という異色の問題作となった。
1990年代の主要作品としては、スピルバーグの『シンドラーのリスト』、ロバート・アルトマンの『ショート・カッツ』(1993)、ロバート・ゼメキスの『フォレスト・ガンプ/一期一会』(1994)、クエンティン・タランティーノの『パルプ・フィクション』(1994)、フランク・ダラボンFrank Darabont(1959― )の『ショーシャンクの空に』(1994)、ロン・ハワードRon Howard(1954― )の『アポロ13』(1995)、ジョエル・コーエンJoel Coen(1954― )の『ファーゴ』(1996)などがあり、シリアスな問題提起作から娯楽超大作まで、多様な作品が生まれた。また、ベン・アフレックBen Affleck(1972― )とマット・デイモンMatt Damon(1970― )が脚本を書き、主演した、ガス・バン・サントGus Van Sant(1952― )の『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』(1997)にみられるように、若い才能も台頭した。
前述のような意欲的な作品を生んだ1990年代のアメリカ映画は、世界的な大ヒットとなったジェームズ・キャメロンの『タイタニック』(1997)がアカデミー賞の作品賞・監督賞などを受賞し、CGを有効に使ったスペクタクル大作時代へと移っていく。それらの代表作としては、2000年度アカデミー作品賞受賞作『グラディエーター』、2003年度アカデミー作品賞受賞作『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』などをあげることができよう。
そしてこれらの作品群からわかるのは、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどの英語圏の才能が、アメリカ映画の世界で活躍するようになっている事実であろう。以前からアメリカ映画の製作に密接にかかわってきたイギリス映画は、製作スタッフと俳優を含めて、その密接度をいっそう深めている。『グラディエーター』の監督であるリドリー・スコットはイギリス出身、『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズ(2001~2003)の監督であるピーター・ジャクソンPeter Jackson(1961― )はニュージーランド出身、また『タイタニック』のジェームズ・キャメロンはカナダ出身である。俳優でも、ニコール・キッドマンNicole Kidman(1967― )、ケイト・ウィンスレットKate Winslet(1975― )、ケイト・ブランシェットCate Blanchett(1969― )、ラッセル・クロウRussell Crowe(1964― )など、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド出身者が多い。
もう一つの傾向として、シリーズ作品、リメイク作品の多さをあげなければならない。これは、明らかにアメリカ映画における企画力の衰弱を示すものである。
今日、アメリカ映画は、映画館だけでなく、ビデオやDVD、ケーブル・テレビジョンの業界にも大きな市場をもつようになり、また、ヨーロッパやアジアの映画市場でも圧倒的な優位を誇るようになった。アメリカ映画の最大の強みは、巨額の製作費をかけて娯楽性豊かな大作を生み出す基盤をもっているところにある。それが特殊撮影効果を最大限に発揮した『スター・ウォーズ』のようなSFアクション大作を生み出し、さらにコンピュータ・グラフィクスが開発されると、特撮効果はさらに進歩した。『ジュラシック・パーク』は現実に存在しない恐竜の群れを再現してみせた。いまや映画で視覚的に表現できないものはない時代になった。
このような、デジタル・テクノロジーであるコンピュータ・グラフィクス(CG)が製作分野に導入されて、視覚的に表現できないものはない時代となった2000年代、アメリカ映画は、この技術を最大限に活用した大作を次々と公開し、世界市場での存在感を高めている。企画力の衰弱という批判の一方で、そういった大作の多くがシリーズ化され、しかも作品の本数を重ねるごとに、世界規模で数字を伸ばす傾向がみられる。このような例としては、前述の『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズ(2001~2003)に加えて、『ハリー・ポッター』シリーズ8本(2001~2011)、『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズ5本(2003~2017)、『トランスフォーマー』シリーズ5本(2007~2017)、『スパイダーマン』シリーズ3本(2002~2007)、『バットマン』シリーズ3本(2005~2012)、『シュレック』シリーズ4本(2001~2010)、『アイス・エイジ』シリーズ5本(2002~2016)などがあげられる。
さらにデジタル・テクノロジーは、新たな3D映画の誕生へとつながった。3D映画すなわち立体映画は、既述のように、1950年代にテレビへの対応策として取り入れられたものだったが、2000年代においても映画館ならではの体験の提供という動機は共通している(加えて今回は、海賊版対策といった側面もある)。3D映画に対しては、これまでに映画館に定着してこなかったことから、業界関係者と観客それぞれに懐疑の念は少なくなかったが、『アバター』(2009)の大成功により評価は一変した。このジェームズ・キャメロン監督作品は、それまで破られることのなかった自身の『タイタニック』の興行記録を更新し、新たな3D映画が上映できるような、映画館のデジタル化が世界的に促進されるに至っている。
製作、上映両面でのデジタル化が、これからのアメリカ映画をどう変えていくか注目しなければならない。なぜなら、アメリカの動向が、結局、世界の映画状況をリードしていくことになるからである。
[品田雄吉・濱口幸一]
『筈見有弘著『世界の映画作家28 アメリカ映画史』(1985・キネマ旬報社)』▽『水野晴郎著『ハリウッド100年』(1990・勁文社)』▽『佐藤忠男著『アメリカ映画』(1990・第三文明社)』▽『安木正美著『デジタル・ハリウッド――マルチメディア時代の映像ビジネス』(1995・日本経済新聞社)』▽『加藤幹郎著『映画ジャンル論――ハリウッド的快楽のスタイル』(1996・平凡社)』▽『加藤幹郎著『映画 視線のポリティクス――古典的ハリウッド映画の戦い』(1996・筑摩書房)』▽『ジョルジュ・サドゥール著、丸尾定・村山匡一郎・出口丈人・小松弘訳『世界映画全史7、8 無声映画芸術の開花――アメリカ映画の世界制覇1、2』(1997・国書刊行会)』▽『井上一馬著『アメリカ映画の大教科書』上下(1998・新潮選書)』▽『八尋春海著『映画で学ぶアメリカ文化――映画を見ればアメリカが解る』(1999・スクリーンプレイ出版)』▽『ジョルジュ・サドゥール著、丸尾定訳『世界映画全史11 無声映画芸術の成熟――ハリウッドの確立』(1999・国書刊行会)』▽『滝山晋著『ハリウッド 巨大メディアの世界戦略』(2000・日本経済新聞社)』▽『畑暉男編『20世紀アメリカ映画事典 1914→2000 日本公開作品記録』全2冊(2002・カタログハウス)』▽『大場正明編『アメリカ映画主義――もうひとつのU.S.A.』(2002・フィルムアート社)』▽『田中英司著『現代・アメリカ・映画』(2004・河出書房新社)』▽『藤原帰一著『映画のなかのアメリカ』(2006・朝日選書)』▽『北島明弘著『アメリカ映画100年帝国――なぜアメリカ映画が世界を席巻したのか?』(2008・近代映画社)』▽『塚田幸光著『シネマとジェンダー――アメリカ映画の性と戦争』(2016・臨川書店)』▽『上島春彦著『レッドパージ・ハリウッド――赤狩り体制に挑んだブラックリスト映画人列伝』(2016・作品社)』▽『田山力哉著『現代アメリカ映画の監督たち』(現代教養文庫)』▽『ロバート・スクラー著、鈴木主税訳『アメリカ映画の文化史――映画がつくったアメリカ』上下(講談社学術文庫)』▽『井上一馬著『ブラック・ムービー――アメリカ映画と黒人社会』(講談社現代新書)』▽『北野圭介著『新版ハリウッド100年史講義――夢の工場から夢の王国へ』(平凡社新書)』▽『ミドリ・モール著『ハリウッド・ビジネス』(文春新書)』▽『中条省平著『クリント・イーストウッド――アメリカ映画史を再生する男』(ちくま文庫)』