スティルウェル(その他表記)Joseph Warren Stilwell

改訂新版 世界大百科事典 「スティルウェル」の意味・わかりやすい解説

スティルウェル
Joseph Warren Stilwell
生没年:1883-1946

アメリカの軍人フロリダ州に生まれ,1904年ウェスト・ポイント陸軍士官学校を卒業,21年陸軍語学生として中国を知る。35-39年アメリカ大使館付武官(陸軍大佐)として北京滞在。日米開戦後,42年インド・ビルマ・中国方面司令官兼同方面中国軍司令官となり,アメリカ装備の中国軍を訓練してビルマ戦線で日本軍への反攻を指揮した。中国共産党軍の軍事能力の評価,アメリカ軍事援助の私物化などをめぐって,しばしば蔣介石衝突,44年に罷免された。欧米では,善意アジアに手をかして裏切られたヨーロッパ人の一典型ともみなされる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スティルウェル」の意味・わかりやすい解説

スティルウェル
Stilwell, Joseph Warren

[生]1883.3.19. フロリダ
[没]1946.10.12. サンフランシスコ
アメリカの陸軍軍人。 1904年陸軍士官学校卒業。第1次世界大戦中はフィリピンで勤務。中国語を学び,26~27年天津に勤務。第2次世界大戦中は,蒋介石に請われその幕僚長となり,ビルマ方面中国第5,6軍の司令官に任命された。 42年日本軍に敗れ,ジャングルを徒歩でインドまで逃れた。在中国,ビルマ,インドのアメリカ全軍の司令官をつとめたが,中国の内政改革,共産軍との和解を強調する F.ルーズベルトの政策を強行して蒋介石と対立し,44年 10月解任された。しかし 45年ビルマ・ロードが完成すると,蒋は彼を記念してスティルウェル・ロードと改名した。のち太平洋方面アメリカ第 10軍司令官として,沖縄戦に活躍。戦後は第6軍司令官としてサンフランシスコに勤務。

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百科事典マイペディア 「スティルウェル」の意味・わかりやすい解説

スティルウェル

米国の軍人。フロリダ州生れ。ウェスト・ポイント陸軍士官学校を卒業。軍の語学研修生として中国に関心を持つ。1935年より1939年まで大使館付き武官として北京駐在。アメリカ陸軍きっての中国通といわれた。日米開戦後,1942年インド・ビルマ・中国方面司令官兼同方面中国軍司令官に任命され,アメリカの物資・武器で装備した中国軍を訓練しつつビルマ戦線で日本軍への反攻を指揮した。中国共産党の軍事能力を正しく評価していたが,アメリカの軍事援助に関連して蒋介石と対立,1944年罷免された。彼の生涯を中心に20世紀前半のアメリカの中国政策を分析する,歴史家バーバラ・タックマンの《スティルウェルと中国におけるアメリカの経験》(邦題《失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍》)がある。→抗日戦争

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「スティルウェル」の意味・わかりやすい解説

スティルウェル
すてぃるうぇる
Joseph Warren Stilwell
(1883―1946)

アメリカの陸軍軍人。陸軍士官学校を卒業(1914)。1935~39年に北京(ペキン)のアメリカ大使館付武官を務め、42年初頭、再度中国に派遣され、第二次世界大戦中は蒋介石(しょうかいせき)総統参謀長を務めるとともに、中国、ビルマ(現ミャンマー)、インド戦区のアメリカ軍司令官として活躍した。ことに日本軍が42年に遮断したビルマから中国への補給ルートの再建に尽力したことは有名。この補給ルートは「スティルウェル公路」とよばれた。蒋政権に批判的であったため、蒋介石の要求によって44年10月解任された。その後は死去するまでアメリカ陸軍第六軍司令官の職にあった。

[藤本 博]

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