スペクター(読み)すぺくたー(英語表記)Phil Spector

日本大百科全書(ニッポニカ) 「スペクター」の意味・わかりやすい解説

スペクター
すぺくたー
Phil Spector
(1939―2021)

アメリカの音楽プロデューサーニューヨークブロンクス生まれ。複数の楽器の残響効果を利用して音に厚みをもたせるオーケストレーションにより、独自のアレンジがほどこされた新しいロックン・ロールをつくりあげる。その重厚かつ特異な音響空間はウォール・オブ・サウンド(音の壁)とよばれ、1960年代にロックン・ロール・ミュージックの録音概念を塗り替え、ビートルズビーチ・ボーイズ等のスタジオ・ワークに決定的な影響を与えた。

 スペクターは少年時代にロサンゼルスに移り、ハイスクールでテディ・ベアーズを結成。「トゥ・ノウ・ヒム・イズ・トゥ・ラブ・ヒム」(1958)がヒットし、音楽業界への足がかりになる。リー・ヘイズルウッドLee Hazlewood (1929―2007)やレスター・シルLester Sill(1918―1994)といったプロデューサーと働いた後ニューヨークに戻り、リズム・アンド・ブルース、ロックン・ロールの名ソング・ライティング・チーム/プロデューサーのジェリー・リーバーJerry Leiber(1933―2011)とマイク・ストーラーMike Stoller(1933― )とともにベン・E・キングBen E. King(1938―2015)の「スパニッシュ・ハーレム」(1960)を送り出し、1961年にスペクター自身のレーベル、フィリスを立ち上げる。ロネッツ、ボブ・B・ソックス&ザ・ブルージーンズ、クリスタルズなどをプロデュースし、ヒット・チャートを席巻(せっけん)。わずか21歳にして名声と富を得る。『ア・クリスマス・ギフト・フォー・ユー・フロム』A Christmas Gift for You From...(1963)は、スペクターが関係するアーティストが総出演した記念碑的な作品。

 スペクターのプロデュースはさらに進化し続け、ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」(1963)はウォール・オブ・サウンドの代表曲となり、ライチャス・ブラザーズの「ふられた気持ち」(1965)は、白人デュオがソウル・ミュージック風の歌を壮大なオーケストレーションをバックに歌ったもので、この曲はブラック・ミュージックにも影響を与えている。そして1966年、スペクター自身が最高傑作と認める、アイク&ティナ・ターナーの「リバー・ディープ/マウンテン・ハイ」を発表。アメリカではヒット・チャート入りを逸するが、イギリスではヒットするだけでなく、ビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』(1966)と並び、究極のスタジオ・ワークとして評価は高かった。

 アイク&ティナ・ターナーのアメリカでのセールスの失敗後、レコード会社と軋轢(あつれき)が生まれ、1968年スペクターはロネッツのリードシンガー、ロニー・ベネットRonnie Bennett(1943―2022)と結婚し、ロサンゼルスで隠遁(いんとん)生活に入った。

 1960年代の後半にビートルズの『レット・イット・ビー』(1970)のポスト・プロダクション(仕上げ)を手がけるも、あまり高い評価は得られなかった。しかし、その一方で、ビートルズ解散後のジョージ・ハリソンGeorge Harrison(1943―2001)のソロ・アルバム『オール・シングス・マスト・パス』(1970)はバージョン・アップされたウォール・オブ・サウンドといえるスペクターのプロダクションの傑作である。ハリソンが主催したバングラデシュのチャリティー・コンサートの音楽監督を務めたのもスペクターであった。ほかに1970年代には、ジョン・レノン、レナード・コーエン、ディオンDion(1939― )、そしてパンク・バンドのラモーンズなどのミュージシャンのプロデュースを手がけている。

[中山義雄]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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