ターナー(読み)たーなー(英語表記)Cyril Tourneur

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ターナー」の意味・わかりやすい解説

ターナー(Tina Turner)
たーなー
Tina Turner
(1939―2023)

アメリカの黒人女性シンガーテネシー州ナットブッシュに生まれる。本名アンナ・メイ・ブロックAnna Mae Bullock。強烈なボーカルで、黒人のソウル・ミュージックと白人のロック・ミュージックの橋渡しをつとめた。

 小さいころから音楽好きであったが、故郷のテネシー州など南部の黒人街で注目を集め始めたのは、後に夫となるアイク・ターナーIke Turner(1931―2007)が率いるバンド、キングズ・オブ・リズムに入ってからのことであった。キングズ・オブ・リズムのファンであったティナは、その才能をアイクにみいだされ、メンバー入りしたのち短期間でバンドの中心へと成長していった。

 1950年代当時、アイクが率いるキングズ・オブ・リズムは南部でも指折りの黒人ダンス・バンドとして知られていた。1951年に彼らは、ロックン・ロール・ヒットの第1号といわれるシングル「ロケット88」(バンド・メンバーであったジャッキー・ブレンストンJackie Brenston(1930―1979)のバンド、ジャッキー・ブレンストン・アンド・ヒズ・デルタキャッツ名義で発売)を世に送り、一大変革期にあった当時のアメリカン・ポップ・ミュージックの土台となるバンドの一つとなった。さらに、リーダーであるアイクは、サニー・ボーイ・ウィリアムソンSonny Boy Williamson(1899―1965)やB・B・キングなど、第二次世界大戦後のブルースを彩(いろど)った先人たちとの交流から多くを学びながら、さらにビートの激しいエネルギッシュな音楽性で若年層から人気を集めたのである。そこに新たに加わったのがティナであった。アイクとティナは1958年に結婚し、これを機にバンド名もアイク&ティナ・ターナーと変える。

 1960年代初頭は、アメリカでも女性が人前で踊り歌うことは好ましいことではなかった。しかしアイク&ティナ・ターナーのレビューは、この常識に逆らうように、ティナと数人の女性コーラスを舞台前面に立て、セックス描写を強調する生々しいステージで評判をよんだのである。ちなみに「ロックン・ロール」の「ロック」や「ロール」は、もともとは性行為を意味する隠語であった。アイク&ティナ・ターナーやジェームズ・ブラウンら、1950~1960年代を席巻した黒人ミュージシャンは、キリスト教という規律に縛られたアメリカの社会の息苦しさを、セックスやダンスなどの「肉体の表現」で否定しようとする文化的側面をもち、これが若い白人層にも浸透したのである。

 アイク&ティナ・ターナーのヒットとしては「ア・フール・イン・ラブ」(1959)、「アイ・アイドライズ・ユー」(1961)、「プラウド・メアリー」(1971)などがある。またアメリカではヒットはしなかったものの、フィル・スペクターがプロデュースした「リバー・ディープ/マウンテン・ハイ」(1966)という名作もある。

 1976年にアイクとティナは離婚。その後ティナが一人のシンガー、また一人の女性としてのびのびと仕事をする時代がやってくる。長年にわたるアイクからの暴力によって縛りつけられた生活をついに清算したからで、彼女は、1984年の「レッツ・ステイ・トゥギャザー」「ホワッツ・ラブ・ガット・トゥ・ドゥ・ウィズ・イット」などの大ヒット、映画『マッド・マックス サンダードーム』(1985。ジョージ・ミラーGeorge Miller(1945― )監督)への出演の時期に、人気の頂点を迎えることになる。当時の彼女は40歳代後半とは思えない若々しさと迫力で、マドンナなどと並び、新時代の女性像の一翼を担いながら1980年代のトップ・ポップ・シンガーへと昇りつめた。

[藤田 正]


ターナー(Joseph Mallord William Turner)
たーなー
Joseph Mallord William Turner
(1775―1851)

イギリスの風景画家。4月23日ロンドンに生まれる。ロイヤル・アカデミーの美術学校に入学。初めは水彩画で地誌的、名所絵図的作品を描いたが、やがて油彩画に力を注ぎ、1802年初めて大陸に旅したのち、『カレー埠頭(ふとう)』などに代表される作品群が生まれる。主として、暗い色調で、形態を激しい動きでとらえようとする。15年、彼の絵の質は一変、画面構成において、クロード・ロランに肉薄しようとして、擬古典的な静的な明るさをもつ作品が描かれた。28年、二度目のイタリア旅行をしたのちは、文学的物語を主題として、色と光とで幻想的風景を描くようになり、『チャイルド・ハロルドの巡礼』『戦艦テメレール』などが生まれた。

 1839年に最後のイタリア旅行をしたが、このころから、一連のいわゆる「ベネチア風景」が描かれた。ここでは文学的主題は消え、物の描写はほとんど留意されなくなる。画面に描かれた主題や物象自体の動きでなく、動きをいわば光の振動に転換して表現しようとする。「光の錬金術師」といわれたように、世界のエネルギーとしての光を描いたともいえよう。また未完成に終わった作品も多い。彼の絵画は半世紀後の印象派以後の問題を予想させる異彩に違いないが、晩年の未完成の作品には、それ以上のものを感じさせる。51年12月19日ロンドンに没し、手元にあった約2万点の作品は国家に遺贈された。そのほとんどはロンドンのテート・ブリテン(旧テート・ギャラリー)の所蔵となっている。

[岡本謙次郎]

『千足伸行解説『世界美術全集18 ターナー』(1977・集英社)』『渡辺俊夫編『世界の素描15 ターナー』(1978・講談社)』


ターナー(Victor W. Turner)
たーなー
Victor W. Turner
(1920―1983)

スコットランド生まれの人類学者。バージニア大学教授を務めた。マンチェスター大学修了後、ザンビアのンデンブ(デンブ)Ndembu人社会で詳細な実地調査研究を行う。それまでの静的な社会構造分析を中心としたアフリカ社会研究に対して、「社会劇」として記述・解読される社会過程の動的把握と、文化の根幹にかかわる儀礼と象徴の研究を推進し新しい次元を開いた。理論的にはファン・ヘネップの儀礼研究にみられる移行と境界状態の問題を発展させ、社会における境界状態に注目しつつ、地位や役割といった形で人間を区分する社会構造に対して、平等性と連帯性を強調する人間の存在様式(コミュニタス)を積極的な文化概念として提出した。社会は構造と反構造から構成されるとする、いわば「否定性」に着目するターナーの所説は、「未開社会」の枠を超えて、巡礼やカーニバルなど現代社会や歴史社会における文化現象をも人類学的分析の対象とし、人類学以外の分野にも大きな影響を与えている。

[永渕康之 2018年12月13日]

『冨倉光雄訳『儀礼の過程』(1976・思索社/新装版・1996・新思索社)』『梶原景昭訳『象徴と社会』(1981・紀伊國屋書店)』


ターナー(Herbert Hall Turner)
たーなー
Herbert Hall Turner
(1861―1930)

イギリスの天文学者。リーズに美術家の子として生まれる。ケンブリッジトリニティ・カレッジに学ぶ。1884年グリニジ天文台の主任助手となり、1893年オックスフォード大学の天文学教授となり、終生この職にあった。天文観測に写真観測を採用し、それに関する研究もある。後年、変光星、月面地形、地震の研究を行い、友人の地震学者ミルンの死後その観測を引き継ぎ、後年これをオックスフォードに移した。また、世界中の地震観測資料を集め、震源カタログを発行した。その間1922年には深発地震の存在に想到している。同年「測地学および地球物理学国際会議」の地震部会議長となる。1930年8月、ストックホルムでの同会議の初会議開始のとき脳出血に倒れ、4日後の8月16日に没した。

[松澤武雄]


ターナー(Cyril Tourneur)
たーなー
Cyril Tourneur
(1575?―1626)

イギリスの劇作家。文学的出発は風刺的寓意(ぐうい)詩『変形譚(たん)変形』The Transformed Metamorphosis(1600)。経歴には謎(なぞ)の部分がきわめて多く、彼の作と断定される現存戯曲は『無神論者の悲劇』The Atheist's Tragedy(1611)一作だけである。これは副題に「正直者の復讐(ふくしゅう)」とあるように「復讐劇」の系統に属する作品であるが、残虐非道な無神論者ダンビルが自ら振り上げた斧(おの)によって頭を割られる結末には、神による復讐というモラルと同時に、伝統的復讐劇に対する批判も読み取れる。流血と瞑想(めいそう)の交錯するジェームズ朝悲劇の傑作『復讐者の悲劇』(1607)も、彼の作とみなされているが、決定的証拠に欠け、ミドルトン作者説も依然として有力である。ほかにヘンリー王子の夭折(ようせつ)を悼む哀歌などの詩作がある。1613年には早くも筆を断ち、25年、政治家サー・エドワード・セシルEdward Cecil(1572―1638)の個人秘書としてスペインに遠征するが、カディス攻略の企ては失敗、その帰国途上アイルランドに客死した。

[野崎睦美]

『大場建治訳『復讐者の悲劇』(1969・悠久出版)』


ターナー(Frederick Jackson Turner)
たーなー
Frederick Jackson Turner
(1861―1932)

アメリカの歴史学者。ウィスコンシン州に生まれる。1888年から1910年までウィスコンシン大学、また10年から24年までハーバード大学でアメリカ史を講じた。1893年に発表した論文『アメリカ史における辺境(フロンティア)の意義』は、彼のフロンティア学説展開の基礎として、歴史学者としての彼の地位を確立したばかりか、アメリカの思想界にも大きな影響を与えた。彼は、アメリカの歴史のユニークさは、西部の存在にあったとし、ヨーロッパからの移民者であるアメリカ人は、未開の西部との遭遇体験を通して、独自の個人主義的、民主主義的伝統を生み出していったと論じた。著作に『西部の興隆』The Rise of the West(1906)がある。

[紀平英作]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ターナー」の意味・わかりやすい解説

ターナー
Turner, John Napier

[生]1929.6.7. イギリス,サリー県,リッチモンド
[没]2020.9.18. カナダ,トロント
ジョン・ネーピア・ターナー。カナダの政治家,法律家。首相(在任 1984.6.~9.)。1932年家族とともにイギリスからカナダに移り,オタワで初等教育を受けた。1949年ブリティシュコロンビア大学で政治学の学士号を取得後,1年間フランスのパリに留学。その後ローズ奨学生としてイギリスのオックスフォード大学で学び,1952年法学学士号,1957年修士号を取得。帰国後さまざまな企業で働き,1962年の選挙にカナダ自由党から立候補して初当選。1965年に初入閣し,1968年に自由党党首選挙でピエール・エリオット・トルドーに敗れた。トルドー政権で司法大臣を経て財務大臣を務めていたが 1975年9月に突然辞任,翌 1976年2月には議員の職も辞した。会社法の研究に戻り,その後 8年間いくつかの企業の重役を務める一方で政界との緊密な関係を保持した。1984年トルドー首相の政界引退表明をうけ,後継党首に選ばれ首相に就任したが,その直後の選挙でブライアン・マルルーニー率いるカナダ進歩保守党に敗北を喫した。首相在位期間は 3ヵ月にも満たず,短命政権に終わった。1988年の選挙で再び保守党に敗れると,翌 1989年に自由党党首を辞任した。1993年まで下院議員を務め,政界引退後は弁護士として活動した。

ターナー
Turner,Ted

[生]1938.11.19. オハイオ,シンシナティ
アメリカのニュース専門テレビ局CNN創設者。ブラウン大学を校則違反で中退後,父親の経営する看板広告会社ターナー広告社に入社。 24歳のときに父親が死亡し事業を継承。 1970年経営難に陥っていたアトランタの UHFテレビ局を買収してテレビ業界に参入した。 1976年ターナー・ブロードキャスティング・システム TBSを設立。番組を通信衛星経由で全米のケーブルテレビ CATV局に広域配信することで,収益の急拡大に成功した。 1980年6月,ニュース専門のケーブルテレビ,CNNを設立し,メディア界の風雲児として注目を集めた。 1989年の天安門事件,1991年の湾岸戦争の報道は,CNNの名を一躍世界に知らしめた。 1991年『タイム』誌恒例の「マン・オブ・ジ・イヤー」にも選ばれた。 1996年 10月娯楽・メディア大手タイム・ワーナーの TBS買収 (75億ドル) によりタイム・ワーナーの筆頭株主となり,同社副会長を務めたが,2003年5月辞任した。私生活では,1991年女優ジェーン・フォンダと結婚したものの,2001年離婚。アメリカズカップでの優勝 (1977) 経験をもつヨットマン。 1997年財政難の国際連合に 10年間で総額 10億ドルの寄付を表明した逸話もある。

ターナー
Turner, Joseph Mallord William

[生]1775.4.23. ロンドン
[没]1851.12.19. ロンドン
19世紀イギリスで最も偉大な風景画家。理髪師の子に生まれ,ロイヤル・アカデミーに学び,27歳でアカデミーの正会員となった。同年初めてフランスに旅行,N.プーサンや C.ロランの強い影響を受ける。 1819年から3度イタリアに旅行。初期の忠実な描写は,これらの旅行を通ししだいにロマン主義的なものに移り変わり,空と水と光の描写に集中,自由で幻想的な独自の風景画を創造した。名作『チャイルド・ハロルドの巡礼』 (1832) ,『戦艦テメレール』 (1839) ,『雨,蒸気,速度』 (1844) は光と大気の完全な調和を示す。彼の色彩画法はその後モネをはじめ印象派 (→印象主義 ) の画家たちに大きな影響を与えた。孤独を愛したため,チェルシー地区の下宿屋に変名で隠遁生活を送り,知る人もなく世を去った。

ターナー
Turner, Frederick Jackson

[生]1861.11.14. ウィスコンシン,ボルテージ
[没]1932.3.14. カリフォルニア,サンマリノ
アメリカの歴史家。ウィスコンシン大学 (1889~1910) とハーバード大学 (10~24) でアメリカ史を教えた。 1893年『アメリカ史におけるフロンティアの意義』 The Significance of the Frontier in American Historyと題する論文を発表し,アメリカの諸制度がゲルマンに起源をもつとする支配的な学説を批判し,フロンティアの存在こそがアメリカ人の国民性の形成や民主制の発展に寄与したとした。また,『アメリカ史におけるセクションの意義』 Significance of Sections in American History (32) では,北部,南部,西部の地域的特性を強調した。いずれもおりからのナショナリズムの風潮を反映するもので,アメリカ史の解釈に大きな影響を与えた。著書"The Frontier in American History" (20) 。

ターナー
Turner, Victor Witter

[生]1920.5.28. グラスゴー
[没]1983
イギリスの人類学者。マンチェスター大学で M.グラックマンに師事し,アフリカ研究に従事。母校で教えたのち,渡米してコーネル大学,シカゴ大学,バージニア大学で研究・教授職を歴任。ザンビアのンデンブ族社会などにおける儀礼の象徴人類学的研究を行うなかで,A.ファン・ヘネップの通過儀礼論を発展させ,儀礼を社会構造転換のプロセスとして象徴的かつダイナミックに理解する視点を提示した。主著『儀礼の過程』 The Ritual Process: Structure and Anti-structure (1969) ,『象徴と社会』 Dramas,Fields,and Metaphors (74) 。

ターナー
Turner, Nat

[生]1800.10.2. バージニア,サザンプトン
[没]1831.11.11. バージニア,エルサレム
アメリカの黒人奴隷。奴隷暴動の指導者。信仰心の厚かった彼は,2番目の主人に売られた頃から自分を黒人解放の使徒と考えるようになり,近傍の黒人に対して大きな影響力をもち,「予言者」と呼ばれた。 1831年8月 21日夜,バージニア州南東部のサザンプトンでほかの奴隷7人とともに暴動を起し,3番目の主人一家を殺害,その後2日間で白人 51人を殺したが,1人の奴隷も所有しない家庭は襲撃対象から除外された。しかし,従う者 75人にすぎず,白人の武力抵抗と 3000人の民兵の出現で暴動は崩壊,絞首刑となった。この奴隷自身による解放闘争は南部一帯の奴隷所有者を恐慌状態に陥れ,その後奴隷弾圧が一層強化された。

ターナー
Tourneur, Cyril

[生]1575頃
[没]1626.2.28. アイルランド,キンセール
イギリスの劇作家。伝記不詳。生涯の大半を軍人として過し,外交使節としてネーデルラントに渡ったこともあるらしいが,1625年 E.セシルに従ってスペインのカディス遠征に加わり,病を得て帰途死亡。文筆に打込んだ6年間には風刺詩や哀歌などの詩作もあるが,特にシェークスピア時代に続くジェームズ朝の退廃的な作風を代表する2編の恐怖悲劇『復讐者の悲劇』 The Revenger's Tragedy (1607刊) と『無神論者の悲劇』 The Atheist's Tragedy (11刊) で知られる。ただし前者は J.ウェブスターや T.ミドルトンの作とする学者もある。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報