リー(読み)りー(英語表記)Nathaniel Lee

日本大百科全書(ニッポニカ) 「リー」の意味・わかりやすい解説

リー(Spike Lee)
りー
Spike Lee
(1957― )

アメリカの映画監督。アトランタ生まれ。本名はシェルトン・ジャクソン・リーShelton Jackson Leeで、「スパイク」は教師であった母親が赤ん坊のころにつけたニックネームである。父親は著名なジャズ・ミュージシャン兼作曲家ビル・リーBill Lee(1928―2023)で、彼の仕事の関係からシカゴを経て、ニューヨークのブルックリンへと転居、スパイクはこの町をホームタウンとして成長する。祖父や父の出身校であるアトランタの黒人大学モアハウス大学時代に映画製作を始め、卒業後にニューヨーク大学映画学科に入学。1980年に1年生の彼が製作・監督した最初の短編『ジ・アンサー』The Answerは、南部側を正当化する視点から南北戦争を扱い、人種問題への態度で非難されてきたD・W・グリフィス監督の『国民の創生』(1915)のリメイクのために雇われた黒人の脚本家の物語であった。卒業製作である『ジョーズ・バーバー・ショップ』(1983)が、学生アカデミー賞やスイスのロカルノ映画祭で銅賞に輝くなど高い評価を受け、続く初の商業映画『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』(1985)で、カンヌ国際映画祭新人賞、インディペンデント・スピリット・アワーズ処女作品賞、ロサンゼルス映画批評家協会の新世代賞などを受賞。同時期にいくつか生まれたインディペンデント映画の代表的な作品の一本に数えられるばかりか、その後に広がりをみせた若いアフロ・アメリカン監督による映画の新たな潮流の旗手として注目を集めた。『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』は、3人の男性の間を渡り歩く黒人の若い女性を主人公とする。性描写もかなり存在するが、登場人物がカメラ=観客に向かって語りかける場面や、時系列を入り組ませて綴(つづ)られるストーリー展開など、アーティスティックな実験や卓越した構成力が、この作品を安手のポルノ映画と似て非なるものにしている。リーの戦略は、「黒人=性への関心が強い」といった性にかかわる黒人への人種的偏見をあえて逆利用し、洗練されたスタイルで再呈示することにある。そこで黒人女性はある意味で男性を選択しうる能動的な主体として位置づけられ、3名の黒人ボーイフレンドを三者三様の(これも戯画化された)ステレオタイプに設定することで、黒人男性の一様ではない多様性およびそれと裏腹に互いにいがみ合い、足の引っ張り合いに終始する彼らの偏狭さを浮き彫りにする。そうした視点は、続くモアハウス大学での自身の体験を背景にした『スクールデイズ』(1988)でも継承され、南部の「黒人大学」を舞台に展開される党派争いを、古典的なミュージカルの要素も交えて描き、ひとくくりに「黒人」と総称されがちな黒人の若者間に横たわる対立と多様性を描きだした。しかし、リーの政治的な立場が一躍クローズアップされ、その是非をめぐってさまざまな議論が巻き起こったのは、長編第三作の『ドゥ・ザ・ライト・シング』(1989)においてのことである。

 物語の舞台は、黒人とプエルトリカンが住人の大半を占めるブルックリンの一画。ラジオ・カセットレコーダーからヒップ・ホップ音楽を大音量で鳴り響かせながら街を歩く黒人男性が警官に殺害されたことをきっかけに、黒人たちのフラストレーションが爆発、イタリア人経営のピザ屋を発火点に暴動の広がる過程が、うだるような暑さにみまわれたストリートの24時間のできごととしてつづられる。映画をめぐる議論は、映画監督がラストの暴動を肯定的にとらえたか否か、との問題に収斂(しゅうれん)され、その問題に対する回答として、映画のラストに、暴力を徹底して否定したマーチン・ルーサー・キングのことばと、自衛や権力を倒すために暴力も辞さない立場を鮮明にしたマルコム・エックスのことばが字幕で並置された。ただし、問題含みの内容ながら作品としての完成度の高さや力強さは疑うべくもなく、アカデミー賞で2部門、ゴールデン・グローブ賞で4部門のノミネートを受け、ロセンゼルスとシカゴで映画批評家協会最優秀監督賞を受賞。その後、1960年代以来の黒人の政治運動におけるキングとマルコム・エックスの対立について、リーははっきりと後者に加担する映画を撮る。それが、1960年代に活躍し、道なかばにして暗殺されたカリスマ的な黒人活動家の生涯を描く大作『マルコムX』(1992)である。このプロジェクトについては、黒人監督である自分が監督するべきだ、と主張し続けてきたリーが望みどおり監督の座を射止め、これまでにない規模の予算も獲得、自ら先頭にたって周到な宣伝戦略も展開させた。冒頭のタイトルバックには、1992年の「ロス暴動」の引き金になった「ロドニー・キング事件」(白人警官による黒人のロドニー・キングRodney King(1965―2012)に対する集団暴行事件)の映像が燃える星条旗とともに画面に現れ、ラストには監獄から釈放されたネルソン・マンデラが登場。リーのマルコム・エックス再評価の企ては、過去の歴史上の偉人としての位置づけを目ざすものではなく、いまなお解決からほど遠い状況にある人種問題の再考を観客に促すためのものであった。

 優れたミュージシャンであった父親を尊敬しつつ、彼に欠けていた経済感覚こそ、とりわけアフロ・アメリカンの表現者の今後にとって必要で、芸術家は企業家でもあるべきだ、との持論をリーはもつ。『マルコムX』の宣伝活動もそうした文脈でとらえられるべきで、彼の広範囲に及ぶ活動についても同様である。映画以外にも、多くのアーティストのミュージック・ビデオの製作・監督を手がけ、ナイキやアメリカン・エクスプレスなどの世界的な大企業のテレビCMでも成功を収めている。ドキュメンタリー作品も数多く発表。長編劇映画としては、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロの傷跡も生々しいニューヨークを舞台にした『25時』(2002)で、主要キャストに黒人を含まない物語を重厚なタッチで演出、映画監督としての成熟を印象づけた。

[北小路隆志]

資料 監督作品一覧

ジョーズ・バーバー・ショップ Joe's Bed-Stuy Barbershop : We Cut Heads(1983)
シーズ・ガッタ・ハヴ・イット She's Gotta Have It(1985)
スクール・デイズ School Daze(1988)
ドゥ・ザ・ライト・シング Do the Right Thing(1989)
モ’・ベター・ブルース Mo' Better Blues(1990)
ジャングル・フィーバー Jungle Fever(1991)
マルコムX Malcolm X(1992)
クルックリン Crooklyn(1994)
クロッカーズ Clockers(1995)
キング・オブ・フィルム 巨匠たちの60秒 Lumière et Compagnie(1995)
ガール6 Girl 6(1996)
ゲット・オン・ザ・バス Get on the Bus(1996)
ラストゲーム He Got Game(1998)
サマー・オブ・サム Summer of Sam(1999)
キング・オブ・コメディ The Original Kings of Comedy (2000)
10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス~「ゴアVSブッシュ」 Ten Minutes Older : The Trumpet - We Wuz Robbed(2002)
25時 25th Hour(2002)
セレブの種 She Hate Me(2004)
それでも生きる子供たちへ~「アメリカのイエスの子ら」 All the Invisible Children - Jesus Children of America(2005)
インサイド・マン Inside Man(2006)
セントアンナの奇跡 Miracle at St. Anna(2008)

『田中アリサ訳『スパイク・リーの軌跡』(1993・マガジンハウス)』『ジェフ・アンドリュー著、鹿田昌美訳『インディーズ監督 10人の肖像――もうひとつのハリウッド・ドリーム』(1999・キネマ旬報社)』


リー(David M. Lee)
りー
David M. Lee
(1931― )

アメリカの実験物理学者。ニューヨーク市郊外の町ライで生まれる。10代のころは気象学に興味をもったが、父親の書棚でみつけた『神秘の宇宙』という本で物理学のおもしろさを知った。1948年にハーバード大学に進学して物理学を専攻し、1952年に卒業。アメリカ陸軍に入隊したが、そこで知り合ったコネティカット大学の大学院生をつうじてヘリウムの「超流動」という研究分野に出会う。1954年にコネティカット大学に入学して修士号、1955年エール大学に進学し1959年に博士号を取得した。1959年コーネル大学に職を得て、低温物理学研究所の立ち上げにかかわり、1968年に教授となる。

 1972年にこの研究所で、ヘリウム3という物質を絶対零度(-273.15℃)のぎりぎり近くまで冷却したときに「超流動」という現象が現れることを発見した。ふつうの物質はニュートンの運動法則に従うが、超流動状態の物質は、ミクロの現象についての量子力学の理論に従う。超流動状態のヘリウムをコップに入れると、ヘリウムはコップの壁を伝って外に流れ出すという不思議な現象がおきる。ヘリウム3の超流動を発見した業績で、同じ研究グループにいたR・リチャードソン、発見のときには指導中の大学院生だったD・オシェロフとともに、1996年のノーベル物理学賞を受賞した。

[馬場錬成]


リー(Yuan Tseh Lee)
りー / リーユアンツェー
Yuan Tseh Lee
(1936― )

アメリカの化学者。中国名は李遠哲(リーユアンツェー)。当時、日本領であった台湾の新竹(しんちく/シンチュー)に生まれる。国立台湾大学を1959年に卒業、国立精華大学に進み、1961年修士号を取得した。翌1962年渡米して、カリフォルニア大学バークリー校に入り、1965年に化学博士号を取得した。ハーバード大学博士研究員を経て、1968年にシカゴ大学助教授となり、1971年準教授、1973年教授に昇格した。1974年カリフォルニア大学の教授に転じたが、同年にアメリカの市民権を獲得している。1994年台湾に戻り、アカデミア・シニカの総裁に就任した。なお1986年(昭和61)には招待研究者として来日、また日本語も堪能である。

 リーは優れた化学実験家であり、カリフォルニア大学の大学院時代から化学反応の動力学的研究に着手、分子線(分子ビーム)交差法に注目していた。その後ハーバード大学でD・R・ハーシュバックの研究室に参加、分子線を利用して化学反応の基本となる素過程を観測するための共同研究を開始した。リーは分子線交差装置の改良に取り組み、従来の装置が一部の分子(アルカリ金属など)のみに有効であったものを、すべての分子に対し有効な装置を開発した。1986年に「化学反応の素過程の動力学的研究」に貢献したとして、ハーシュバックとともにノーベル化学賞を受賞、同様の研究を行ったJ・C・ポランニーも同時に受賞した。

[編集部 2018年12月13日]


リー(Peggy Lee)
りー
Peggy Lee
(1920―2002)

アメリカのポピュラー歌手、ソングライター。ノース・ダコタ州ジェームズタウン生まれ。本名ノーマ・デロリス・エグストロームNorma Deloris Egstrom。高校時代からラジオ放送に出演。17歳から歌手として生活する。1941年シカゴのホテルでスウィング王ベニー・グッドマンに認められて彼の楽団に参加。43年ギター奏者のデイブ・バーバーDave Barbour(1912―65)と結婚して一時引退(52年離婚)。45年に復帰。48年にバーバーとの共作『マニャーナ』Mañanaミリオンセラーを記録した。50年代以降は映画にも出演して活躍、55年の映画『皆殺しのトランペット』Pete Kelly's Bluesでアカデミー助演女優賞にノミネートされた。同年のディズニー映画『わんわん物語』Lady and the Trampでは挿入歌『美しき夜』Bella Notteなどを書き、声の出演も行った。69年のヒット曲『イズ・ザット・オール・ゼア・イズ』Is That All There Is?でグラミー賞最優秀コンテンポラリー女性歌唱賞を受賞。89年に自叙伝『ミス・ペギー・リー』Miss Peggy Lee : An Autobiographyを出版。92年まで録音を続け、95年グラミー賞特別功労賞を受賞した。ジャズとポップス双方の名歌手として知られ、作詞・作曲も多く手がけた。代表的な作品、歌唱に『ブラック・コーヒー』『ミス・ワンダフル』『ジョニー・ギター』などがある。

[青木 啓]

『FM東京セレクト・ジャズ・ワークショップ制作グループ・日本たばこ産業アド企画室編『名演!Jazz Standards』(1989・講談社)』


リー(Mike Leigh)
りー
Mike Leigh
(1943― )

イギリスの映画監督。イングランド中西部のサルファッド生まれ。即興を多用する独自の演出法で、人物の心理や感情を繊細に描くのを得意とする。俳優、演出家として舞台を経験したあと、1971年、『ブリーク・モーメント』で監督デビュー。その後、舞台やテレビを中心に活動し、『五月のナッツ』(1976)、『アビゲイルのパーティ』(1977)など人物の性格を鋭く風刺したコミカルなテレビ・ドラマで喝采(かっさい)を博す。1988年、『ハイ・ホープス』で映画に復帰。以後『ネイキッド』(1993年、カンヌ国際映画祭監督賞)、『秘密と嘘』(1996年、カンヌ国際映画祭パルム・ドール)、『トプシー・ターヴィー』(1999)、『ヴェラ・ドレイク』(2004年、ベネチア国際映画祭金獅子賞)、『家族の庭』(2010)と、しだいに円熟の度を加えながら次々に秀作を発表している。

[宮本高晴]

資料 監督作品一覧

ブリーク・モーメント Bleak Moments(1971)
ハイ・ホープス High Hopes(1988)
ライフ・イズ・スイート Life Is Sweet(1990)
ネイキッド Naked(1993)
秘密と嘘 Secrets & Lies(1996)
キャリア・ガールズ Career Girls(1997)
トプシー・ターヴィー Topsy-Turvy(1999)
人生は、時々晴れ All or Nothing(2002)
ヴェラ・ドレイク Vera Drake(2004)
ハッピー・ゴー・ラッキー Happy-Go-Lucky(2008)
家族の庭 Another Year(2010)


リー(Marius Sophus Lie)
りー
Marius Sophus Lie
(1842―1899)

ノルウェーの数学者。1865年クリスティアニア(現、オスロ)大学を卒業、1869年ドイツ、フランスに留学し、クラインと友人となり共同で幾何学を研究した。1886年からライプツィヒ大学、1898年からクリスティアニア大学の教授であった。

 リーは、1873年ごろから、一点の周りの回転の全体や空間における運動の全体のような、いくつかの実数の組(パラメータ)によって定まる解析的変換のつくる群の一般論の研究を始め、三つの基本定理を証明して、このような変換群とその引き起こす無限小変換(ベクトル場)の間の関係を確立した。この思想は現代のリー群論として受け継がれている。彼の理論は、エンゲルFriedrich Engel(1861―1941)と共著で『変換群の理論』(全3巻)として出版された。また、リーは、自由可動性に基づくユークリッド(または非ユークリッド)幾何学の基礎づけの研究で、ロバチェフスキー賞を受賞している。ほかに球幾何学に関する研究も有名である。全7冊からなる全集がある。

[杉浦光夫]


リー(Vivien Leigh)
りー
Vivien Leigh
(1913―1967)

イギリス、アメリカの映画・舞台女優。インドのダージリンに生まれる。パリのコメディ・フランセーズとロンドンの王立演劇学校に学び、ロンドンの舞台に立ち、イギリス映画に出演した。弁護士と結婚後、妻あるローレンス・オリビエと恋に落ち、彼を追ってハリウッドへ行ったとき、『風と共に去りぬ』(1939)の主役スカーレット・オハラにスカウトされ、アカデミー主演女優賞に輝いた。『哀愁』(1940)、『アンナ・カレニナ』(1948)などでも、たぐいまれな美貌(びぼう)と確かな演技力をみせ、『欲望という名の電車』(1951)でふたたびアカデミー賞を獲得した。ブロードウェーの舞台では『十二夜』と『トバリッチ』が著名。オリビエとは1940年に結婚、59年に離婚。54歳で肺結核のため、ロンドンで死亡した。

[日野康一]

『アン・エドワーズ著、清水俊二訳『ヴィヴィアン・リー』(1980・文春文庫)』


リー(Robert Edward Lee)
りー
Robert Edward Lee
(1807―1870)

アメリカの軍人。バージニア生まれ。1829年、ウェスト・ポイントの士官学校を卒業。メキシコ戦争などに従軍ののち、52年同校の校長に就任。59年には、奴隷解放を要求してハーパーズ・フェリーを襲撃したジョン・ブラウンらの武装蜂起(ほうき)鎮圧の指揮をとる。南北戦争勃発(ぼっぱつ)(1861)と同時に、リンカーン大統領の強い懇請を振り切って南部の大義に殉ずべく南部連合軍に身を投じた。劣勢な南軍を指揮して果敢に戦い、65年南軍総司令官となったが、結局同年4月9日、アポマトックスにおいて北軍のグラント将軍のもとに降服することを余儀なくされた。ここに南北戦争は終結した。彼はその悲劇的経歴のゆえに、単に南部のみならずアメリカの国民的英雄となった。

[長田豊臣]


リー(Jonas Lie)
りー
Jonas Lie
(1833―1908)

ノルウェーの小説家。海軍士官を志したが、近視のため文学に転じ、故郷のノールランド地方に取材した『幻視者』(1870)が処女作。『三本マストの未来号』(1872)、『水先案内とその妻』(1874)、『前進!』(1882)などの海洋小説でまず名声を得たが、後期の家庭生活を描いた『生の奴隷』(1883)、『ギリエの家族』(1883)、『司令官の娘たち』(1886)などでは、恵まれざる人々に対する深い理解と同情が、落ち着いた簡素な筆致の背景に流れていて、近代小説の得がたい古典として、しり上がりに名声を高めた。イプセン、ビョルンソンらとともにノルウェー文学の全盛期を築いた一人。

[山室 静]


リー(Trygve Halvdan Lie)
りー
Trygve Halvdan Lie
(1896―1968)

ノルウェーの政治家。1919~1922年労働党書記、1922~1935年労働組合総同盟法律顧問、1937~1949年国会議員。1935~1939年法相、1939~1940年商相。ドイツ軍のノルウェー侵攻後の1940年4月、ロンドンに亡命したノルウェー政府の外相に就任。戦時下、英米ソの協調に努めた功績を認められ、1946年初代国連事務総長に就任。朝鮮戦争で国連軍出動を強いられ、再任に際しソ連の拒否権発動を受けた。任期を延長して留任したのち1953年辞任。1955~1963年オスロ市長を務めた。

[大島美穂]


リー(Nathaniel Lee)
りー
Nathaniel Lee
(1653?―1692)

イギリスの劇作家。ケンブリッジ大学出身。処女作『ネロ』(1674)から『張り合う女王たち』(1677)を頂点とする主要劇作には、古代史の「英雄劇」が多い。ほかにラファイエット夫人の小説に基づく喜劇『プリンセス・オブ・クレーブ』(1681)、ドライデンとの共作『ギーズ公』(1682)など。ことばとイメージが過剰なその劇世界には死と狂気が満ちている。1684年には彼自身精神に障害をきたし、数年間精神科病院に収容された。ロンドンの聖クレメント・デーンズ教会に眠る。

[野崎睦美]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「リー」の意味・わかりやすい解説

リー
Lee, Bruce

[生]1940.11.27. アメリカ合衆国,カリフォルニア,サンフランシスコ
[没]1973.7.20. ホンコン
アメリカ合衆国生まれの俳優。ホンコンで育つ。広東オペラ歌手で俳優の父の影響で早い時期から演技に馴れ親しみ,不良少年などの役で映画に頻繁に起用された。10代でカンフーを覚え,ダンスも習得する。けんかや警察沙汰が絶えないことを心配した両親は,リーが 18歳になるとアメリカへ移住させた。ワシントン大学で哲学や演劇を学ぶ一方,武術の学校を開いた。1964年頃,截拳道(ジークンドー)を創設。ロサンゼルスの空手競技会での姿がテレビ関係者の目に留まり,テレビシリーズ『グリーン・ホーネット』The Green Hornet(1966~67)の準主役に起用された。しかし俳優の仕事が続かず,スティーブ・マックイーンなどのハリウッドスターにアクションを指導して収入を得た。1969年の『かわいい女』Marloweでオフィスを破壊するシーンに出演し注目を集める。1971年,ホンコンに戻り主演した映画 2作がアジアで興行記録をつくった。これらはのちに『ドラゴン危機一発』Tang shan da xiong(1971)と『ドラゴン怒りの鉄拳』Jing wu men(1972)としてアメリカでも成功を収めた。リーはヒットを機に制作会社を設立,続く『ドラゴンへの道』Meng long guo jiang(1972)は共同制作とし,脚本,演出,主演を兼ねた。『燃えよドラゴン』Enter the Dragon(1973)の世界的ヒットで国際的スターとなったが,この映画がホンコンで公開される 6日前に死亡。死因は公式には頭痛薬の副作用による脳浮腫とされている。当時リーは『死亡遊戯』Game of Deathの撮影中で,死後,代役や顔写真を使うなどして完成した映画は 1978年に公開された。息子のブランドンも俳優となったが,映画撮影時に死亡した。(→ホンコン映画

リー
Lee, Sir Christopher

[生]1922.5.27. ロンドン
[没]2015.6.7. ロンドン
イギリスの俳優。フルネーム Sir Christopher Frank Carandini Lee。イギリス軍士官とイタリアの伯爵の娘を両親にもち,ウェリントン・カレッジ在学後イギリス空軍に所属し,第2次世界大戦に従軍。その後演技の道に入るものの,その風貌からすぐには役がつかず,脇役を多くこなし,『フランケンシュタインの逆襲』The Curse of Frankenstein(1957)で初主演を果たす。これを機に,しばしば共演するピーター・カッシングとともにハマー・フィルム・プロダクションとの協働関係が生まれ,『吸血鬼ドラキュラ』Horror of Dracula(1958)ではドラキュラ伯爵を完璧に体現した。1965年『怪人フー・マンチュー』The Face of Fu Manchuに出演。『ウィッカーマン』The Wicker Man(1973)や 007シリーズの『007/黄金銃を持つ男』The Man with the Golden Gun(1974)では個性的な外見がいかされた役どころを演じた。ピーター・ジャクソン監督の「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズや『ホビット/思いがけない冒険』The Hobbit: An Unexpected Journey(2012),ジョージ・ルーカス監督の「スター・ウォーズ」シリーズ,ティム・バートン作品やマーティン・スコセッシ監督の『ヒューゴの不思議な発明』Hugo(2011)などに出演。2001年に大英帝国三等勲功章 CBEを受章。2009年ナイトに叙された。

リー
Lee, Spike

[生]1957.3.20. ジョージア,アトランタ
アメリカ合衆国の映画監督,制作者。本名 Shelton Jackson Lee。人種差別などの深刻なテーマを徹底的に掘り下げるアプローチで知られる。ジャズ作曲家ビル・リーの息子として生まれ,ニューヨーク・ブルックリンの中流階級地域で育つ。コミュニケーション学を専攻していたアトランタのモアハウス大学時代に,スーパー8による最初の映画を監督した。1978年からニューヨーク大学の大学院で映画を専攻。卒業制作の短編『ジョーズ・バーバー・ショップ』Joe's Bed-Stuy Barbershop: We Cut Heads(1982)が学生アカデミー賞を受賞し,注目を集める。長編デビュー作『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』She's Gotta Have It(1986)では脚本,制作,監督,編集に加え,重要な脇役として出演。カンヌ国際映画祭ではジャン=リュック・ゴダールになぞらえて絶賛された。その後はほぼすべての作品で,アメリカにおける人種問題に真正面から取り組み,なかでも伝記映画『マルコムX』Malcolm X(1992)は記念碑的作品となった。しかしその他の作品ではしばしば評価が分かれ,ユダヤ人や女性の型にはまった描き方や上映時間の長さを批判する声も上がっている。歯にきぬ着せぬ発言でも知られ,『ドゥ・ザ・ライト・シング』Do the Right Thing(1989),『マルコム X』などでアカデミー賞受賞を逃し続けていることに対しては,ハリウッドの黒人に対する差別だと非難している。

リー
Lee, Ang

[生]1954.10.23. 屏東
台湾出身の映画監督。漢字表記李安。国立芸術専門学校に学び,1978年に渡米してイリノイ大学で演劇,ニューヨーク大学で映画を専攻。卒業制作の作品で賞を獲ったが芽が出ず,デビュー作は台湾で制作した。中国人家庭を描いたコメディ長編『推手』Pushing Hands(1991),『ウェディング・バンケット(喜宴)』The Wedding Banquet(1993),『恋人たちの食卓(飲食男女)』Eat Drink Man Woman(1994)の 3作に共同脚本・監督として取り組んだ。これらが国際的に高く評価され,ジェーン・オースティンの長編小説『分別と多感』Sense and Sensibilityの映画化企画に抜擢。この『いつか晴れた日に』(1995,アカデミー賞 7部門でノミネート)を通じて力量を示したことが転機となる。つたない英語で俳優たちと話しながら感動的な演技を引き出し,監督としての手法を確立した。『グリーン・デスティニー(臥虎藏龍)』Crouching Tiger, Hidden Dragon(2000)で初めてアカデミー賞監督賞候補になり,『ブロークバック・マウンテン』Brokeback Mountain(2005)でアカデミー賞監督賞を受賞。2013年ヤン・マーテルの長編小説『パイの物語』Life of Piを原作とする視覚効果満載の『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』(2012)で,再びアカデミー賞監督賞を手にした。

リー
Lee, David M.

[生]1931.1.20. ニューヨーク,ライ
アメリカ合衆国の物理学者。フルネーム David Morris Lee。1959年エール大学で博士号を取得。カリフォルニア大学教授などを経たのち,コーネル大学教授。1970年代初めにロバート・C.リチャードソン,ダグラス・D.オシェロフとともにコーネル大学の低温実験室でヘリウム3が絶対温度 0.002Kの極低温超流動を起こすことを確認した(→超流動ヘリウム3)。容器の中の液体ヘリウムが粘り気をなくして自然に壁面をよじのぼり,外に流れ出たのである。ヘリウム4における超流動については 1930年代にすでに発見されていたが,ヘリウム3について 3人が発見した現象は発生の仕組みがまったく異なる。統計熱力学の基礎となり,高温超伝導にも道を開いた功績が認められ,1996年にリチャードソン,オシェロフとともにノーベル物理学賞を受賞。

リー
Lee, Peggy

[生]1920.5.26. ノースダコタ,ジェームズタウン
[没]2002.1.21. カリフォルニア,ロサンゼルス
アメリカ合衆国の歌手,作詞・作曲家,女優。本名 Norma Deloris Egstrom。高校生のときに合唱団でうたい,プロ歌手としてラジオ番組に出演。1940年スベン・オルソン楽団に参加。1941年ベニー・グッドマン楽団に加入する。1943年にギター奏者デーブ・バーバーと結婚して引退。1945年に復帰し,1948年に自作『マニャーナ』Mañanaがミリオンセラーのヒットとなる。1951年に離婚。1950年代の代表曲に『フィーバー』Fever(1958)がある。ウォルト・ディズニーの映画『わんわん物語』Lady and the Tramp(1955)の挿入歌『美しき夜』『ララルー』などをソニー・バークと共作,声優としても出演した。また,数々の映画とテレビに女優として出演。1955年の映画『皆殺しのトランペット』Pete Kelly's Bluesでアカデミー賞助演女優賞にノミネートされた。1969年のヒット『イズ・ザット・オール・ゼア・イズ』Is That All There Is?でグラミー賞の最優秀ポップ女性歌唱賞を受賞。1992年に最後のアルバム "Moments Like This"を録音した。

リー
Lee, Harper

[生]1926.4.28. アラバマ,モンロービル
[没]2016.2.19. アラバマ,モンロービル
アメリカ合衆国の小説家。フルネーム Nelle Harper Lee。人種的偏見が根強く残るアメリカ南部の田舎町の暮らしを感動的に描いた第一作『アラバマ物語』To Kill a Mockingbird(1960)によって,高く評価され敬愛を集めた。アラバマ大学で法学を専攻し,イギリスのオックスフォード大学で夏季交換留学生として学んだのち,ニューヨークに出て航空会社の予約係として働くかたわら執筆を始めた。その後,支援を得て著述専業となり,編集者に助けられて苦心の末『アラバマ物語』を書き上げた。同作は 1961年ピュリッツァー賞を受賞,全世界で 3000万部をこえるベストセラーとなり,1962年にグレゴリー・ペック主演で映画化され,それも映画史に残る名作となった。しかしこの大成功のあとは長く作品を上梓せず,公の場に姿を見せることは少なかった。2015年,『アラバマ物語』の発表以前に執筆されていた,同作の続編となる『さあ,見張りを立てよ』Go Set a Watchmanが刊行された。2007年に大統領自由勲章を受章。

リー
Lee, Robert Edward

[生]1807.1.19. アメリカ,バージニア,ストラトフォード
[没]1870.10.12. アメリカ,バージニア,レキシントン
アメリカの軍人,教育者。南北戦争における卓越した南軍の将軍。 1829年陸軍士官学校卒業。アメリカ=メキシコ戦争に従軍。 52年陸軍士官学校校長。 56~57,60~61年テキサス守備隊勤務。 59年にはハーパーズフェリーの J.ブラウンの反乱鎮圧の指揮をとった。南北戦争勃発とともに連邦軍隊を退役し,故郷バージニア州兵の指揮をとった。 61~62年南部連合大統領 J.デービスの軍事顧問,62年軍司令官となり各地を転戦,劣勢の南軍を率いて善戦,65年2月南軍総司令官となったが,同年4月アポマトックス・コートハウスで,北軍総司令官 U.グラントに降伏した。 65~70年ワシントン大学学長として教育に専念。同大学は彼の名を記念して,ワシントン・アンド・リー大学と改称された。

リー
Lea, Homer

[生]1876.11.17. コロラド,デンバー
[没]1912.11.1. ロサンゼルス
アメリカの軍人。孫文の軍事顧問として清朝打倒のために活動,初期中国革命の真相を多くの著作で世界に紹介した。ロサンゼルスのオクシデンタル大学,スタンフォード大学法学部を卒業。学生時代から軍事に興味をもったが,背骨に障害があったためアメリカ軍に入隊できず,光緒 25 (1899) 年中国に渡り,康有為の軍事顧問となった。義和団事変を弾圧したが,清朝転覆の陰謀に加わり,露見してホンコンに逃亡。そこで孫文と知合い,ともに日本におもむき,孫文らの反清革命軍の参謀長の役割を果した。『朱の筆』 The Vermilion Pencil (1908) ,『無知の勇気』 The Valor of Ignorance (09) などの著書がある。なお,太平洋戦争の 30年以前にハワイをめぐり,日米戦争の起ることを正確に予言したことでも有名。

リー
Lie, Marius Sophus

[生]1842.12.17. ノールフィヨールエイド
[没]1899.2.18. クリスチャニア(現オスロ)
ノルウェーの数学者。クリスチャニア大学在学中 (1859~65) に文献学,天文学など広範囲の学科に興味をもつ。 1869年冬,奨学金を得てベルリンに学び,そこで F.クラインと知合う。2人でパリに遊学し,J.ダルブーや C.ジョルダンと交わるうちに,偏微分方程式論に興味をもつ。 72年クリスチャニア大学助教授になるが,この年クラインが発表したエルランゲン目録に影響され,幾何学に対する群論の重要性を知り,接触変換によって不変な偏微分方程式の性質を研究する。クラインの跡を継いでライプチヒ大学教授となり (86) ,まもなくドイツの数学者 E.エンゲルの助けを得て,それまでの研究を『変換群の理論』 (3巻,88~93) にまとめる。この大冊に続いて『接触変換の幾何学』 (96) を出版する。 98年,再び故国に戻り,クリスチャニア大学の教壇に立った。

リー
Lie, Jonas

[生]1833.11.6. モドゥム
[没]1908.7.5. スタベルン
ノルウェーの小説家。海軍士官を志したが近眼のため断念,大学入試のために予備校で学ぶうちイプセンやビョルンソンと知合った。故郷のノールラン地方に取材した『空想家』 Den fremsynte (1870) でデビュー。以後幾多の名作を書き,ノルウェー小説界の代表者となった。『三本マストの未来号』 Tremasteren "Fremtiden" (72) ,『水先案内人とその夫人』 Lotsen og hans hustru (74) ,『前進!』 Gåpå! (82) などは初期の海洋小説の傑作。次いで『生の奴隷』 Livsslaven (83) を皮切りに,好んで田舎町の家庭を描くようになる。その代表作は『ギルエの家族』 Familien på Gilje (83) と『司令官の娘たち』 Kommandørens døtre (86) 。晩年には2巻の童話集『妖怪』 Trold (91,92) がある。

リー
Lie, Trygve Halvdan

[生]1896.7.16. オスロ
[没]1968.12.30. ヤーロー
ノルウェーの政治家。オスロ大学卒業。ノルウェー労働党書記 (1919~22) ,同法律顧問 (22~25) ,国会議員 (35) ,法相 (35~39) ,商相 (39~40) ,第2次世界大戦中,ロンドンのノルウェー亡命政権の外相 (41) を歴任。帰国後再び外相となり,サンフランシスコ会議,第1回国際連合総会に出席し,初代国連事務総長に選任された。事務総長としてイラン問題,パレスチナ問題などで国連の政治的権威の確立に努め,平和 20年計画の提唱,大国への平和使節団の派遣を行うなど,平和維持機関としての国連の基盤を築いた。朝鮮動乱の処理に際して社会主義国から批判を受け,事務総長を辞した (53) 。その後は,ノルウェーの特派大使,産業相などを歴任した。主著"In the Cause of Peace: Seven Years with the United Nations" (54) 。

リー
Lee, Sir Sidney

[生]1859.12.5. ロンドン
[没]1926.3.3. ロンドン
イギリスの文学研究者。オックスフォード大学に学ぶ。『イギリス伝記辞典』 Dictionary of National Biographyの編集に参加し,L.スティーブンの跡を継いで 1891年には編集主幹となる。『シェークスピア伝』 Life of William Shakespeare (1898) ,『ビクトリア女王伝』 Life of Queen Victoria (1902) など伝記多数のほか,エリザベス朝に関する研究書を発表。またシェークスピアの二つ折本 (ファースト・フォリオ) のファクシミリ版 (02) を出した。

リー
Lee, Arthur

[生]1740.12.21. バージニア,ウェストモーランド
[没]1792.12.12. バージニア,ミドルセックス
アメリカの外交家,政治家。独立戦争中ヨーロッパでアメリカ独立の承認と援助を求めて活動した。医師であったが法律を学び,1775年弁護士となる。 76年大陸会議より B.フランクリン,S.ディーンとともにフランス使節に任命され,フランスとの同盟を実現するために努力した。しかし,リーは他の代表と仲たがいし,条約の締結を待たずにディーンとともに解任され帰国した。 81年バージニア議会議員となり,82~84年連合会議 (大陸会議) 代表をつとめた。

リー
Lee, Yuan Tseh

[生]1936.11.29. 新竹
台湾生れのアメリカの化学者。中国名,李遠哲。台湾で学んだのち,1965年にカリフォルニア大学バークリー校で博士号を取得,シカゴ大学 (68~74) を経てバークリー校へ戻る。 74年帰化。同校で D.R.ハーシュバックとともに素粒子物理学で開発された分子線交差法を改良,高性能化して化学反応実験に適用。高速で衝突する分子の化学反応を精密に観察する手法を開発した。ハーシュバック,J.C.ポラニーとともに 86年ノーベル化学賞を受賞。

リー
Leigh, Vivien

[生]1913.11.5. ダージリン
[没]1967.7.8. ロンドン
イギリスの女優。 1937年 L.オリビエと結婚 (のち離婚) 。代表的舞台はエルシノアで演じたオフィーリア (37) ,T.ウィリアムズの『欲望という名の電車』のブランチ (49) ,オリビエと共演した G.B.ショー『シーザーとクレオパトラ』 (51) とシェークスピア『アントニーとクレオパトラ』 (51) のクレオパトラなど。映画でも多くの作品に出演,『風と共に去りぬ』 (39) と『欲望という名の電車』 (51) でアカデミー主演女優賞を受賞した。

リー
Leigh

イギリスイングランド中北部,グレーターマンチェスター地域西部,ウィガン地区の町。1974年までは独立した都市だった。マンチェスターの西約 20kmにあり,リーズ・リバプール運河に沿う。南ランカシャー炭田に位置し,かつては採炭と綿工業が主産業であったが,今日では機械工業が中心となっている。

リー
Lee, Charles

[生]1731. チェシャー,ダーンホール
[没]1782.10.2.
イギリス生れのアメリカの軍人。フレンチ・アンド・インディアン戦争に参加後,バージニアに移住。アメリカ独立軍の少将となった。 1776年 12月イギリス軍の捕虜となり,その間ひそかにアメリカ軍撃滅計画をイギリス司令官に提出した。釈放後独立軍に復帰したが,G.ワシントンの命令に服さず,78年夏軍事裁判で有罪となり,80年除籍された。

リー
Lee, Arthur Hamilton, 1st Viscount Lee of Fareham

[生]1868.11.8. ドーセットシャー
[没]1947.7.21. グロスターシャー
イギリスの政治家。 1888年陸軍に入り,93~98年カナダで軍事学の教授をつとめた。 1900年保守党議員として下院に選出され,18年男爵。 19~21年農相,21~22年海相。ワシントン会議における功績により子爵となった。また芸術愛好家としてロンドン美術研究所設立に尽力し,バッキンガムシャーの所領と私邸「チェッカーズ」を首相別邸として寄付した。

リー
Lee, Gypsy Rose

[生]1914.1.9. シアトル
[没]1970.4.26. ロサンゼルス
アメリカの女優。本名 Rose Louise Hovick。6歳のときからボードビルの舞台に立ち,ジーグフェルド・フォーリーズその他多くのレビューやバーレスクに出演,ストリップ・ティーザー (ストリッパー) としても人気があった。 A.ローレンツ台本,J.スタイン作曲のミュージカル『ジプシー』 (1959) は,彼女の自伝に基づきその半生を描いたもの。

リー
Lee, Francis Lightfoot

[生]1734.10.14. バージニア,ストラトフォード
[没]1797.1.11. バージニア,ストラトフォード
アメリカ独立革命期の政治家。 1758~76年バージニア植民地議会議員。 75~79年大陸会議代表となり,兄リチャード・ヘンリー・リーとともに独立宣言に署名。連合規約起草委員会メンバーの一人。

リー
Lee, Nathaniel

[生]1653頃.ロンドン
[没]1692.5. ロンドン
イギリスの劇作家。ケンブリッジ大学に学んだ。初め俳優を志し,のち悲劇作家となる。王政復古期の典型的な英雄悲劇を得意とし,『ネロ』 Nero (1674) ,『競い合う王妃たち』 The Rival Queens (77) など,古典的題材を扱った作品で知られる。晩年は発狂して悲惨な生活をおくった。

リー
Lee, Jason

[生]1803.6.28. ケベック,スタンステッド
[没]1845.3.12. ケベック,スタンステッド
アメリカのメソジスト派牧師,オレゴン地方開拓者。フラットヘッド・インディアンへの布教のため,1833年 N.ワイスの第2回探検隊とともにオレゴンにおもむき,38~40年を除いて,44年まで伝道,教育活動に従事,かたわらオレゴン准州政府樹立に尽した。

リー
Lee, Laurie

[生]1914.6.26. グロスターシャー,ストラウド
[没]1997.5.14. グロスターシャー
イギリスの詩人。田園の自然や静かな生活を歌った平明な作品のほか,自伝『ロージーと飲むりんご酒』 Cider with Rosie (1959) がある。

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