スラブ人(読み)スラブじん(その他表記)Slavs

改訂新版 世界大百科事典 「スラブ人」の意味・わかりやすい解説

スラブ人 (スラブじん)
Slavs

言語(スラブ諸語)の近親性と民族的起源の同一性と文化の類似性によって統括されるヨーロッパ諸民族中最大の民族。

 民族人口は1970年の調査で約2億6000万を数える。その内訳は,ロシア人1億3000万,ウクライナ人4150万,白ロシア(ベラルーシ)人920万,ポーランド人3700万,チェコ人1000万,スロバキア人470万,ソルブ人10万,ブルガリア人790万,セルビア人900万,クロアチア人480万,スロベニア人210万,モンテネグロツルナ・ゴーラ)人60万,マケドニア人120万である。このほかに本国外に居住するスラブ人移民は約1500万人と推定される。スラブ人はその地理的位置と言語の近親性の度合に基づいて,東スラブ族(ロシア人,ウクライナ人,ベラルーシ人),西スラブ族(ポーランド人,チェコ人,スロバキア人,ソルブ人),南スラブ族(ブルガリア人,セルビア人,クロアチア人,モンテネグロ人,マケドニア人)の3群に分類される。

先史時代のスラブ人について語りうるものは考古学的資料以外にはない。前1300-前500年の中欧・東欧に見られる鉄器時代前期の〈ラウジッツ文化〉の担い手をスラブ人と考える説はすでに18世紀に提唱され,19世紀末から20世紀初頭にかけて再燃し,今日なおスラブ人考古学者のあいだでは有力であるが,推測の域を脱してはいない。

 ギリシアの歴史家ヘロドトスは前5世紀の半ばに,ドニエプル川とブーグ川の上流域に住み,年に1度数日間オオカミに変身するというネウロイ人Neuroiのことを伝聞した。ネウロイ人は,その居住地(スラブ人の原郷に近い)や民俗(オオカミ祭祀)から,古代スラブ人の一種族と推定することも可能である。スラブ人の歴史の舞台への登場は比較的遅く,西暦の紀元が改まるころからである。スラブ人についての最初の確かな情報はローマの史家大プリニウスおよびタキトゥスの著作の中に見られ,スラブ人はウェネディVenedi(ウェネティVeneti)の名で現れる。タキトゥスの《ゲルマニア》によれば,ウェネディはペウキニ人(ゲルマン系)とフェンニ人(フィン系ないしラップ系)の居住地に挟まれた森林や山岳地に家を建てて定住し,槍や楯などの武器を携えて,敏しょうに走りまわって略奪を行い,その生活様式はゲルマン人のそれに近い。このウェネディは西スラブ系種族の総称とみてよいであろう。6世紀中葉からはスラブ人は,スクラベノイSklabēnoi(スクラウェニSclaveni)という名称でビザンティンの史家プロコピウスやゴート人の史家ヨルダネスの著作にしばしば現れるようになる。

 言語学的資料から考えられる古代スラブ人の居住地は,ビスワ川流域を中心として西はエルベ川から東はドニエストル川流域に至るヨーロッパの東部領域である。スラブ人の〈原郷〉の問題については種々議論がなされてきたが,多くの研究者の意見を総合すれば,ビスワ川中流域からドニエプル川中流域にまたがる森林と沼沢におおわれた地域にほぼしぼられ,それは今日のポーランド,ベラルーシ,北西ウクライナの一部に該当する。スラブ人に隣接する民族には,北部にゲルマン人,バルト人,東部にスキタイ人,サルマート人,南部にトラキア人イリュリア人,西部にケルト人がいた。

 古代スラブ人の生活の基本単位は家父長制家族であり,政治的単位は氏族的部族で,家長たちが部族集会を組織し,慣習法により共同体生活を規制していた。プロコピウスはスラブ人について〈彼らは哀れな小屋に互いに遠く離れて住んでいて,だれでもしばしばその住いをとりかえる〉と記している。6~7世紀の考古学的資料によれば,スラブ人の家は丸太の素建てに土壁の粗末な建築であり,史書の証言を裏書きしている。生産の基本的形態は農業と牧畜であったが,スラブ人は漁猟にも長じ,養蜂の技術も心得ていた。スラブ人は強力な軍事組織をもたず,危険が迫ると家を捨て,砦のある野営地に避難した。

2~4世紀にはゲルマン人(ゴート人)の南下によりスラブ人の居住地が荒らされ,スラブ人は東と西に分断された。5世紀末にはフン族の国家の崩壊後,スラブ人は南方へ進出しはじめ,一部はドナウ川下流域,黒海北西部沿岸を経て,一部は北西側からバルカン半島ビザンティン帝国領に侵入した。6世紀に入ると,スラブ人は以前はバルト系種族やフィン・ウゴル語系種族の領土であったドニエプル川上流域およびその北部領域を占領し,さらにエルベ川下流域およびバルト海南東部沿岸にまで進出し,一方ではヨーロッパ中・東部の先祖伝来の地を堅持して,ヨーロッパにおける有数の種族グループに膨張した。スラブ人のバルカン侵入は7世紀末には完了し,種族連合が形成されはじめた。

装飾美術では隣接諸民族のゲルマン人,フィン・ウゴル語系種族,スキタイ人,トラキア人の影響を受けた。陶器は刻み目模様,浮彫模様をほどこし,装身具は鉄と青銅を素材として彫刻,鋳造の模様をつけ,細工は繊細である。装飾の最も特徴的なモティーフは自然宗教との結びつきを示し,太陽(円,まんじ),河川・雨(波形・網状模様),いなずま(ジグザグ模様)などを描く。7世紀になると,金属細工にビザンティン美術の影響が見られるようになる。

 古代スラブ人の神話,宗教は断片的にいくつかの特徴が文献資料(6~12世紀)および考古学的資料,民俗資料から知られる。スラブ人の宗教の最古の形態は氏族の祖霊信仰であった。多産の男女神ロードRodとロジェニツァRozhenitsaの崇祀もこれに関連する。共同体的農耕儀礼は後代キリスト教の祭儀に習合されたが,農耕儀礼に関係のあるのは天空の神々スバローグSvarogとダージボグDazh'bogである。ベーレスVelesは家畜の神であった。雷神ペルーンPerunはスラブの神々の神殿で最高位を占めていた。低位の神々には森神レーシーLeshii,水神ボジャノーイVodyanoi,水・森・空気の精ビーラVilaなどがあった。スラブ人は明確な神話を残さず,神々の機能は必ずしも明らかではない。共通スラブ的なパンテオン(万神殿)は存在しなかったものと思われる。10世紀末ごろには氏族神崇拝は部族統合を志向する国家宗教的なものへ変容していくが,自然信仰にはそのような支配力はなく,キリスト教に道を譲ることになる。

8世紀中ごろから原初的な生産形態の崩壊が見えはじめ,手工業の発達が農耕,牧畜による経済生活に変化をもたらした。戦争,民族移動,他民族との接触などにより社会組織の形態にも変化が生じた。氏族的関係は解体し,地縁的共同体が急速に発達する一方,私有財産の蓄積が行われ,富裕で政治的志向をもつ階級の形成が促された。領土拡張の結果,スラブ人の種族的・言語的統一は崩壊しはじめ,現在のような東,西,南の三つのスラブ族が形成されるに至る。地縁的隣保共同体の急速な発達と最古のスラブ人民族国家の成立(最初のスラブ人の王国サモ,チェコ人の大モラビア帝国スロベニア人の公国カランタニア,キエフ・ロシア)にともない,中世スラブ民族(西スラブではポーランド人,チェコ人,やや遅れてスロバキア人,南スラブではスロベニア人,セルビア人,クロアチア人,ブルガリア人,東スラブではロシア人)が形成された。

キリスト教は9世紀から12世紀にかけてスラブ民族のあいだに広まり,漸次国家宗教の位置を占めるようになった。スラブ人のキリスト教受容は諸部族の国家的統一に役立ったばかりでなく,スラブ人に文字と学芸を授け,それぞれに独自な民族文化の伝統の基盤を築かせた。キリスト教をビザンティン帝国から摂取したかローマから受容したかに応じて,スラブ世界は東方正教圏とローマ・カトリック圏に二分され,宗教的伝統ばかりでなく,文化的伝統をも異にするに至った。カトリック圏に入ったポーランド,チェコ,スロベニア,クロアチアなどはラテン語の学習を通じて文章語と文学の伝統を築き,ルネサンス期にはその文化の潮に浴したが,東方正教圏に属するブルガリア,セルビア,ロシアなどはギリシア語の学習を通じて創造した古代教会スラブ語を中世期の共通文章語として使用し,文学的伝統もビザンティン文学のそれにならった。このラテン的西方とギリシア的東方の文化伝統の相違は今日のスラブ世界にも見られるものである。

中世初期の数世紀間にスラブ人の領土は異民族の侵入により大きな変化をこうむった。9世紀末にはドナウ川中流域の盆地にマジャール(ハンガリー)人が侵入し,南スラブ族と西スラブ族とを分断した。スラブ人居住地であったパンノニアマジャール人によって同化された。西スラブ族の領土はドイツ人の攻略によって狭められた。ドイツ人は東方進出の際,西スラブ系のポラブ人Polabのほとんど全部を滅ぼし,あるいは併合した(現在のソルブ人はそのときの生残りである)。バルト海沿岸スラブ人もカシューブ人Kashubを除き征服された。その結果,ポーランド人は北部においてバルト海から切り離され,南部においてはシュレジエン(シロンスク)まで侵入したドイツ人によってチェコ人との接触を絶たれた。南スラブ族の領土も縮小された。ペロポネソス半島のスラブ人居住地はギリシア人によって同化され,スロベニア人はオーストリア人に同化されていった。14世紀後半にはオスマン・トルコの侵攻が始まり,ブルガリア人とセルビア人の居住地はじゅうりんされた。東スラブでは13世紀にモンゴル(タタール)が侵入し(タタールのくびき),南部領域が荒廃に追いこまれた。ロシア人が異民族支配を脱して,シベリアまで版図を拡張するようになるのは16世紀からである。

隷属状態をいちはやく脱却したロシアを例外として,他のスラブ人国家は,近代に至って,他国(ハプスブルク家,プロイセンなど)による支配あるいは異民族(トルコ)への隷従のもとに,ほぼ同様に,凋落(ちようらく)ないし停滞の歴史的運命をたどった。しかし,ヨーロッパ諸国民が国民文化を謳歌したロマン主義の時代を迎えると,スラブ人は言語と民族の同一性の自覚に目覚め,言語と文学の復興を基盤とする再生運動(ルネサンス)を展開した。スラブ・ロマン主義運動は,南スラブにおいてはスラブ諸族の連帯意識のもとに〈イリュリア運動〉として推進されたが,そのような運動は,ロシアを盟主とする政治的理念としてのパン・スラブ主義と結びついた。スラブ人の民族的再統合,国家建設への志向は,パン・スラブ主義の政治的具現である露土戦争(1877-78)によって拍車がかけられた。オスマン・トルコの敗退,第1次バルカン戦争(1912)および第1次世界大戦におけるオーストリア・ハンガリー二重帝国の敗北により,ユーゴスラビア,ポーランド,チェコスロバキアのスラブ人国家が誕生し,ロシアは十月革命を経て形成されたソ連邦の根幹的共和国となった。第2次世界大戦中は反ファシズム抵抗運動によってスラブ民族の連帯感が再び強化され,ポーランド人,チェコ人は失地を回復した。戦後,スラブ人諸国家が政治的・経済的再編成によりすべてほぼ同質的な社会主義国家圏を形成するに至ったことは,ある意味では,ロシアを盟主とする19世紀のパン・スラブ主義の夢の実現である,ということができよう。
ロシア
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スラブ人」の意味・わかりやすい解説

スラブ人
スラブじん
Slav

ヨーロッパ最大の人種的,言語的な諸民族の集合体。主として東ヨーロッパに居住するが,最近数世紀にわたる移住によって今日ではコーカサス (カフカス) ,北・中央アジア,極東のみならず北アメリカ,西ヨーロッパ,オーストラリアにも広く分布している。総人口は推定で約2億 6000万 (1991) 。言語的にはイラン人などと同じくインド=ヨーロッパ語族のサテム系に属する。普通,東スラブ (ロシア人,ウクライナ人,ベラルーシ人) ,西スラブ (ポーランド人,チェコ人,スロバキア人,ソルブ人) ,南スラブ (セルビア人,クロアチア人,スロベニア人,マケドニア人) の3つに大別される。原ブルガリア人はハンガリー人などと同じくアジア系に属するが,その他はスラブ化され,今日では普通南スラブに分類される。宗教的には,ギリシア正教会に属するもの (ロシア人,ウクライナ人の大部分,ベラルーシ人の一部,ブルガリア人,セルビア人,マケドニア人) とローマ・カトリック教会に属するもの (ポーランド人,チェコ人,スロバキア人,クロアチア人,スロベニア人,ウクライナ人の一部,ベラルーシ人の大部分) の2つに大別される。前者はおもにキリル文字,後者はおもにラテン文字を使用。ただしウクライナ人,ベラルーシ人は両教徒ともギリシア文字を使用する。このほかチェコ人のなかに若干のプロテスタント,またボスニア地方のセルビア人のなかに若干のイスラム教徒が存在する。スラブ人の起源地については,18世紀以来論争が戦わされていていまだに定説がないが,大別して,(1) オーデル=ウィスワ河間地域,(2) 黒海北方ウクライナの2つに分れ,最近特に言語的観点からカルパート山脈北麓説が有力となってきている。前1千年紀にはゲルマン人,ケルト人と混住していたが,両民族の西方移動とともに5~6世紀頃に西はエルベ川まで,南はバルカン半島深く進出し,ゲルマン人にやや遅れて国家を形成した。中世にはゲルマン人に押され次第に東方に後退したが,19世紀における民族覚醒,第1,2次両世界大戦における対ドイツ勝利によって再び西漸し,今日にいたっている。

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世界大百科事典(旧版)内のスラブ人の言及

【第2次世界大戦】より

… しかし〈大陸帝国〉から〈世界帝国〉へという対外膨張構想をもつヒトラーは,その帝国の支配原理を人種主義に求めていた。とくに東方に住むスラブ人は劣等人種とされ,労働力を提供する以外の何物でもなかった。そしてこの人種政策は戦時中ポーランドなどで過酷なまでに遂行されていった。…

【奴隷】より

…これらの奴隷は,奴隷商人(ナッハースnakhkhās)の手を経てバグダードやカイロにもたらされた。ブハラやサマルカンドの奴隷市場には男女のトルコ人奴隷が集められ,アラル海南岸のホラズム地方もスラブ人やハザル人奴隷の輸入地としてよく知られていた。またスラブ人の去勢奴隷はユダヤ商人によってイベリア半島に送り込まれ,ここからマグリブを経由してアレクサンドリアに運ばれるルートも存在した。…

※「スラブ人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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