改訂新版 世界大百科事典 「再生運動」の意味・わかりやすい解説
再生運動 (さいせいうんどう)
18世紀末から19世紀70年代にかけて東ヨーロッパの諸民族にひろくみられた文化運動。再生運動は,オブロゼニーobrození(チェコ語),オブロデニエobrodenie(スロバキア語),プレポロドpreporod(クロアチア語),バズラジュダネvazrazhdane(ブルガリア語),レナシュテレrenaştere(ルーマニア語)などと呼ばれるが,このような用語が慣用化されなかった諸民族にも同様の現象は存在した。再生運動は文化の領域で始まり,のちに政治的色彩を強めていくが,オスマン帝国,オーストリア,プロイセンあるいはロシアの支配下に置かれていた東欧諸民族の民族運動と深く結ばれ,東欧の民族運動の基本的特徴をも示している。
再生運動は,諸民族社会の歴史的条件の差異により二つの型に分けられる。第1は自らの封建的あるいはブルジョア的支配階級をもつもので,ポーランド人,チェコ人,ハンガリー人,クロアチア人,ルーマニア人,ギリシア人などがこれに含まれ,第2はそのような支配階級をかつてはもっていたとしても現にもたぬもの,つまりスロバキア人,スロベニア人,セルビア人,ブルガリア人などが含まれ,ソルブ人もこれに加えられる。再生運動は強大な異民族支配の下で,民族がその過去を忘却し消滅するかもしれないという危機感に発したものであったから,運動の主たる関心は言語と歴史に向けられたが,第1の型に属する民族では運動の開始期にはすでに民族語(文章語)を有しており(クロアチア人を除く),第2の型の民族では,既存の方言の中から一つを選んで民族語を形成することが運動の中心的課題となった。また東欧の民族主義は,一般に西欧のロマン主義思想の影響を強く受けたが,第1の型の諸民族は,運動の初期にすでに啓蒙思想を摂取し,言語・歴史の研究でも先んじていた。言語・歴史の問題の中でとくに関心が払われたのは,民族の起源についてであり,その論争がスラブ学を誕生,発達させた。J.コラール,シャファーリクらはスラブ民族がゲルマン,ロマンス系諸民族と同じように古く,かつその数と勢力においてはそれをしのぎさえしていたことを強調した。当時の学問水準の低さからスラブ民族の起源と発生地については多くの謬見にみちていたとはいえ,スラブ民族の一体性と相互関係の主張は,東欧の再生運動の重要な思想的核心をなし,イリュリア運動は南スラブの統合を唱えた。またレレベル,パラツキーらの進取の気風をもつ学者は,古代スラブ共同体の民主的性格を強調することによって,それを運動の実践面に投影させようとした。また進んだ民族のスラブ思想が,遅れた民族(たとえばソルブ人)の再生運動に刺激を与えたことも見落とせない。非スラブ民族についても,ギリシア人が古典古代以来のギリシア人の連続性を主張し,ハンガリー人がフン族とマジャール人を同系とみなし,ルーマニア人がダキア・ローマ人起源説を唱えるなど,いずれも民族的価値を強調した。歴史的関心はまた,過去の民族的栄光の想起となってあらわれた。チェコ人はフス戦争を,ポーランド人は16~17世紀の国家の強大さと貴族的民主制を,バルカンの諸民族はそれぞれの中世王国の繁栄とともにオスマン帝国に対する英雄的抵抗を賛美した(マルコ伝説など)のがその例である。再生運動の思想は広範な民衆的基盤をもっていたがために民主的性格を帯びていたが,現実的目標の達成への道を過去に投影させたために,君主制や絶対主義にも連結する場合があった。また自民族の過去の賛美が,隣接諸民族への非難や自民族が先住民族であったことへの根拠づけに転じた場合も多かった。
執筆者:萩原 直
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報