改訂新版 世界大百科事典 「パンスラブ主義」の意味・わかりやすい解説
パン・スラブ主義 (パンスラブしゅぎ)
Pan-Slavism
panslavizm[ロシア]
スラブ語を話すすべての民族の連帯と統一をめざす思想運動。この運動は最初19世紀初頭,西および南スラブ諸民族の民族的覚醒とともに生まれた。これら弱小のスラブ諸民族はオーストリア・ハンガリー二重帝国やトルコの統治下にあって,自分たちの共通の言語的・人種的紐帯(ちゆうたい)を強調した。最初のパン・スラブ主義の思想家はチェコとスロバキアから出た。彼らは1848年にプラハで最初のパン・スラブ会議を開いたが,これはオーストリア・ハンガリー二重帝国治下のスラブ語民族の地位の向上をめざすものであった。
それとは別に19世紀の60年代に入ると,クリミア戦争におけるロシアの敗北,ドイツにおけるパン・ゲルマン主義の登場などに促されて,ロシアにもパン・スラブ主義が生まれた。その代表の一人モスクワ大学教授のポゴージンMikhail P.Pogodin(1800-75)は,ロシアの指導下のスラブ諸民族の統一こそロシアの使命だと主張した。またダニレフスキーNikolai Ya.Danilevskii(1822-85)は《ロシアとヨーロッパ》(1869)を著したが,これはロシアのパン・スラブ主義のバイブルとなった。このほか詩人のチュッチェフやジャーナリストのカトコフらもパン・スラブ主義の思想を宣伝した。67年にモスクワで第1回のパン・スラブ会議が開かれたが,ロシア正教とロシア語の優位を主張するロシアのパン・スラブ主義は,他のスラブ諸民族に受け入れられず,カトリックのポーランドは最初から除外された。このようなパン・スラブ主義は77-78年の露土戦争に際して,戦争を正当化するものとしてロシア政府によって利用された。78年のベルリン会議以後,パン・スラブ主義はもはや政府の政策において重要な要素でなくなったが,西欧諸国はロシアがいぜんとしてパン・スラブ主義的政策を推進しているものと見なした。
1917年のロシア革命後ソビエト政府はパン・スラブ主義を否定したが,ナチス・ドイツに対抗するためスターリンによって民族主義が鼓吹され,41年6月にドイツがソ連に開戦した2ヵ月後,モスクワにパン・スラブ委員会が設けられた。第2次大戦後の46年12月,ユーゴスラビアの首都ベオグラードでパン・スラブ会議が開かれ,全スラブ圏におけるロシアの勝利が確立したかに見えたが,2年後のユーゴスラビアの離反からそれも一時的なものに終わった。
執筆者:外川 継男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報