ローマの歴史家,政治家。第1名のPubliusはGaiusとする写本も多い。北イタリアまたは南ガリアの出身。ウェスパシアヌス,ティトゥス,ドミティアヌス,ネルウァ,トラヤヌスの5代の皇帝のもとで元老院議員として務め,97年コンスル。112-113年ごろアシア州総督。トラヤヌスの即位とともに文筆活動に入る。最初の作品《アグリコラ》(98)は妻の父G.J.アグリコラの賞賛的伝記で,ブリタニア総督としての義父の功績と諸種族の平定を頂点に,ブリタニアの民族誌をも挿入し,全体としてはドミティアヌス帝に忠誠であったアグリコラをドミティアヌスの犠牲者でもあるとして弁護しようとする。同じ98年の作品である《ゲルマニア》は,その前半部(1~27章)において,一般的にゲルマニアの地理,住民の風俗・習慣,制度を記し,後半部(28~46章)において種族ごとに制度や歴史を記している。異民族についてローマ人の記した例のない作品で,皇帝に隷従し堕落したローマ社会に対して,自由と独立の精神を失わず名誉心と戦意の盛んな若い民族を示して警告とするとともに,彼らが分裂している限りローマにとっての深刻な危険とはならないことも指摘している。
著作年不詳で一部の学者からタキトゥスの作品であることを疑われている《弁論家についての対話》は,75,76年または77年ごろに行われたとされる数人の文人の対話の形をとり,弁論と詩とどちらが上かとか,弁論は古い時代と比べて向上したか堕落したかなど,帝政が始まった後1世紀にしばしば論じられた問題を扱っている。帝政とともに重要性を失った弁論に別れを告げ歴史叙述に向かう彼の気持ちをここに読みとる学者もある。
その歴史の作品としては,69年の4帝時代からドミティアヌス時代を扱った《歴史(ヒストリアエ)》を105年から110年の間に発表し,ついでさかのぼってアウグストゥスの死(14)後ネロまでを《年代記(アンナレス)》に記したが,これはおそらく未完に終わった。この両作品の本来の書名は不確かで,4世紀のヒエロニムスは両著を併せて30巻の一書と見ており,ある写本ではその第17巻に《歴史》第1巻が始まっている。《歴史》のうち残存するのは第1~4巻と第5巻の冒頭部で,69年1月1日から70年のバタウィの反乱までを含む。《年代記》の残存部は,第1~4巻と第5巻の初め,冒頭部を除く第6巻,第11~16巻(ただし第11巻の冒頭と第16巻の末尾を除く)であり,29-31年,37-47年,66-68年が欠如している。
彼は300年にわたる元老院的歴史叙述の伝統の最後といわれ,ウィルトゥス(勇気),グロリア(名誉),リベルタス(自由)など元老院貴族の伝統的な価値意識を継受し,世界帝国を実現した共和政をたたえ,自由(共和政)とプリンキパトゥス(帝政)は両立せずとして帝政社会を批判したが,帝政を不可避のものとしてこれを受け入れざるをえない帝国の現実を認識していた。彼の歴史作品に漂うペシミズムは,そうした彼の気持ちを表している。その中でうごめく欲望,利己心,憶病,短見,阿諛(あゆ),隷従,陰険をえぐり出す彼の筆は,人間社会の赤裸な現実を描ききってまことに尽きない興味をかきたてる。4,5世紀には続編記者が現れ,9世紀以後修道院でしばしば読まれた。現存最古の写本は9世紀のものである。
執筆者:弓削 達
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ローマ帝政期の政治家、歴史家。属州のベルギカ(現ベルギー)に生まれたが、幼年期をローマに過ごし、学芸の修得に努めた。ウェスパシアヌス帝の治下で軍団付高級将校となり、公人としての第一歩を記した。77年結婚。81年ごろ財務官に選ばれ、同時に元老院議員となる。護民官を経て88年法務官となり、97年コンスル(統領)に選ばれた。112~113年属州アシア総督として小アジアに赴く。没年は正確にはわからない。
彼は、政治家として位階を上り詰めるかたわら多くの著作を書いた。共和政末期に弁論術が衰退した原因を述べた『対話』については、彼の筆になるものか否か論争がある。続いて93年に没した岳父の伝記『アグリコラ』を98年に著す。この書物は、属州ブリタニア(現イギリス)の民族、風土、習俗について多くの情報を現代に伝えている。同年ゲルマン人の習俗を紹介した『ゲルマニア』を出版。ここでは蛮族とさげすまれている民族のなかに質実剛健で高潔な精神が息づいていることを明らかにし、退廃の極みにあった同時代のローマ人に警鐘を鳴らしている。ついで2世紀初めに大作『同時代史』を著す。ネロ帝の自殺(68)後から五賢帝時代の始まりまでの28年間を扱ったこの作品はごく一部が伝わるにすぎないが、帝位をめぐる醜い争いを余すところなく描き、支配者の悪徳を暴露している。最後の史書『年代記』は、ティベリウス帝からネロ帝までの50年余の事件を綴(つづ)っている。著述にあたり、元老院議事録、各種の告示などを刻んだ碑文のほか、彼以前の歴史書を参照している。用いた史料間の矛盾に言及することは少ないが、ある程度史料の吟味もなされ、それなりに批判的に摂取している。
彼の理想は共和政期の「自由な」国制であって、元首政とは相いれない。唯一人に権力が集中する元首政下では、支配者は慢心し、被支配者はへつらいと隷従に堕してしまい、もっともウィルトゥス(徳、勇気)を示さなければならぬ元老院議員ですら元首におもねるばかりの嘆かわしい状態となる、と説く。彼は軟弱に堕していくローマをとらえ、これとの対比のうえで純粋・素朴の気風を保っている周辺諸部族を眺めており、その筆はしばしば辛辣(しんらつ)な風刺や皮肉に満ちている。第一級の歴史家であったが、その史書は広く読み継がれたとはいいがたく、『年代記』の1~6巻まではただ1種類の写本しか伝わっていない。
[田村 孝]
『国原吉之助訳『年代記』全2冊(岩波文庫)』▽『泉井久之助訳註『ゲルマーニア』(岩波文庫)』▽『国原吉之助訳『世界古典文学全集22 タキトゥス』(1983・筑摩書房)』
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55頃~120頃
ローマ帝政時代の大歴史家。政治家としても幾多の顕職を歴任した。作品に『アグリコラ伝』『ゲルマニア』『弁論家についての対話』の3小品と,『年代記』『同時代史』の二大史書(両著で14年から96年までの歴史が叙述されたが,散佚した部分が多い)がある。彼は帝政に批判的で共和政の伝統を思慕し,その文章は史家の内面的苦悩を反映している。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…各都市に学校や図書館が設置され,ラテン文学は〈白銀時代〉を謳歌した。マルティアリス,ユウェナリス,タキトゥス,スエトニウス,クインティリアヌスらの作品は今も残っている。このほかキリスト教護教文学という新しいジャンルも現れ,法律学も盛期に入った。…
…しかし彼の名声をねたんだ皇帝ドミティアヌスにより85年ころローマに召還され,死ぬまで隠遁生活を送った。彼の娘と結婚した歴史家C.タキトゥスは《ユリウス・アグリコラの生涯と性格について》を書き,彼の業績をたたえている。【市川 雅俊】。…
…100年ころに活躍したローマの歴史家タキトゥスの書。執筆の時期は《アグリコラ伝》と同じころ(98年)である。…
…スラブ人の歴史の舞台への登場は比較的遅く,西暦の紀元が改まるころからである。スラブ人についての最初の確かな情報はローマの史家大プリニウスおよびタキトゥスの著作の中に見られ,スラブ人はウェネディVenedi(ウェネティVeneti)の名で現れる。タキトゥスの《ゲルマニア》によれば,ウェネディはペウキニ人(ゲルマン系)とフェンニ人(フィン系ないしラップ系)の居住地に挟まれた森林や山岳地に家を建てて定住し,槍や楯などの武器を携えて,敏しょうに走りまわって略奪を行い,その生活様式はゲルマン人のそれに近い。…
…有名な弁論術教師には,演説の見本集を残した大セネカ,《弁論術教程》を著したローマ最大の修辞学者クインティリアヌス,皇帝マルクス・アウレリウスの師フロント,弁論のための資料集を編んだウァレリウス・マクシムスValerius Maximusなどがいる。 白銀時代の最大の作家は小セネカ(以下単にセネカと記す)とタキトゥスであろう。セネカはストア学派の思想と修辞学とを結合した多くの哲学書と書簡集,ギリシア悲劇に基づく9編の悲劇などを残した。…
※「タキトゥス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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