改訂新版 世界大百科事典 「イリュリア運動」の意味・わかりやすい解説
イリュリア運動 (イリュリアうんどう)
ユーゴスラビア,クロアチア人の間で行われた1830,40年代の民族主義運動,民族再生運動。当時南スラブ人はイリュリア人の後裔と考えられていたため,この名が用いられた。封建時代から資本主義時代への移行期における商業の隆盛と,インテリゲンチャの増大が背景として考えられるが,運動の発生をうながしたのはフランス革命が広めた諸理念と,スロバキア人J.コラールやシャファーリクなどが唱えていたパン・スラブ主義である。ナポレオン時代のフランスによって,ダルマツィア,クロアチアの一部,スロベニアがイリュリア諸州として初めて行政単位にまとめられ(1809-13),さまざまな改革が行われたことも人びとは忘れていなかった。一般に運動は1835年,L.ガイがザグレブで《クロアチア新聞》と週刊の文芸付録《クロアチア,スラボニア,ダルマツィアの明星(ダニッツァ)》を発行したときに始まるとされる。前者はザグレブ以北で話されるクロアチア語のカイ方言で書かれていたが,後者はカラジッチの正書法をラテン語に適用し,セルビア語に通ずるシュト方言で印刷された。翌年,両紙は《イリュリア新聞》《イリュリアの明星》と改名し,はるかに言語人口の多いシュト方言のみを使用した。イリュリア名を採用することによって,すべてのイリュリア人つまり南スラブ人が共通の文章語で統一されることを願ったのである。42年には半月と明星をあしらった紋章も生まれた。論文《デセルタツィア》を書いて新思想に賛同したドラシュコビッチJanko Drašković伯(1770-1856),叙事詩《スマイル・アガ・チェンギッチの死》でシュト方言の傑作をものしたマジュラニッチIvan Mažuranić(1814-90)など,《明星》に当時ほとんどのクロアチア作家,愛国者が結集。42年にはマティツァ・イリュリスカが設立されて出版活動が始められた。これは後に最大の愛国的文化団体マティツァ・フルバツスカに発展してゆく。だが民族主義的な文学運動は政治運動へ発展した。1841年イリュリア党を結成,43年,ククリェビッチIvan Kukuljević(1816-89)は議会で初めてクロアチア語で演説し,クロアチア語を公共生活に導入するよう提案した。当初ウィーン・オーストリア政府はマジャール化に抵抗するイリュリア運動を是認していたが,その輝かしい成功を見て恐れを抱き,43年にイリュリアの名称と紋章を禁止。48年にいったんイリュリア主義者は権力を握ったものの,オーストリア連邦内で南スラブ諸族の統一体を望んだ彼らの望みをオーストリア政府が拒んだことで,この運動は終息した。50年5月ウィーンでマジュラニッチ,ククリェビッチ,カラジッチなどが一堂に会して,セルビア人とクロアチア人は共通の文語を持つとの〈文語協定〉を結んだことは,最後のエピソードであろう。イリュリア運動の意義を要約すれば,クロアチア人の民族意識を覚醒し,セルビア人カラジッチの正書法とシュト方言を文語に採用して近代クロアチア文学を確立し,南スラブ人の統一体ユーゴスラビアという考えを初めて打ち出した,ということである。
→再生運動
執筆者:田中 一生
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報