ビザンティン文学(読み)ビザンティンぶんがく

改訂新版 世界大百科事典 「ビザンティン文学」の意味・わかりやすい解説

ビザンティン文学 (ビザンティンぶんがく)

ビザンティン帝国において,ギリシア語でつくられた文学をいう。その基本特質は,古代アッティカ語ないしその擬似形態で書かれた教養文学と,現代ギリシア民衆語(ディモティキ)の先行形態である中世民衆用語を用いた民衆文学との二元性である。それは,ラテン語の展開(古代ラテン語→中世通俗ラテン語→ロマンス諸語)と基本的には,軌を一にして,ギリシア語も,古代アッティカ語→コイネー→中世・現代ギリシア民衆語という展開をとげたにもかかわらず,もはや話し言葉でなくなった古代アッティカ語を用いて創作する文学活動が,ビザンティン帝国ではなお優勢だったからである。その背景となったのは,ビザンティン帝国のおかれた歴史的事情である。すなわち,第1に,ここでは古代ローマ帝国が四周を諸民族に囲まれながらとぎれなく中世に存続した結果,古代文化(内容的にギリシア文化)もまたそのまま維持されたこと,第2にそれを担う文人・教養層がとくにコンスタンティノープルに集まり,上は皇帝,国家高官,高位聖職者から,下は塾教師,売文をこととする三文文士にいたる社会各層を広く網羅し,特別の価値観と使命感を共にしながら,文学活動を行ったことである。

 文人層の出発点となったのは,異質・異言語の文化に囲まれながら,すでに歴史的過去となった自らの故郷の偉大な手本を,郷愁をもって振り返るヘレニズムの文学態度である。彼らは,ギリシア古典においてすでに文学一般が完成されており,自分たちに残されているのは,それを手本として模倣することだけだと考える(古典主義)にとどまらず,この文学活動において自分たちが周辺諸民族に比べて特別の存在であることを再確認するとともに,この文学活動を自分たちが負っている特別の使命と受け取った(文化独占意識。これと対をなす政治的独占意識については,〈ビザンティン帝国〉の項目の[キリスト教ローマ帝国理念]を参照されたい)。この古典に近づくため,まずフィロロギー(文献学,言語学)により,古典ギリシア語を身につけなければならなかった彼らは,その結果狭義の文学のみならず,自然科学(医学ではガレノス,数学ではユークリッド,地理学ではストラボン)をも同時に読むことができるようになり,その結果,今日の分化した専門諸領域の間を容易に渡り歩くことができた。また彼らは神学とも大きくかかわり,神学はビザンティン帝国では聖職者身分の独占物とならなかった。ギリシア古典は初期のギリシア教父たちを媒介として,後代の神学者にまで影響を及ぼした。以上のすべてにもかかわらず,民衆文学の造形と伝達の上で,また,教養文学作品の民衆用語訳において重要な役割を果たしたのは,これら文人層であった。

ビザンティン文学は,古代の三大弁論区別,すなわち政治討議用,法廷論議用,賛美用のうち,最後の,美しい弁論のための技術を継承し,文学の全分野にゆきわたらせた。最も正確にある話を人前で述べ,何かを叙述し,一命題について賛成,反駁を行い,一つのメンタリティになりきって考え,個々の主題を根拠づける等々の諸形式にのっとって作文を書かせる,プロギュムナスマタprogymnasmataと呼ばれた数多くの下稽古作品には,凡庸な大多数の綴方に交じって,ギリシア神話に題材を求めた,バシラケスNikēphoros Basilakēs(1115-80ころ)の《一頭の牡牛に熱愛されてパシファエは何といったか》のような性的倒錯症を思わせるものや,風呂好きの享楽主義者である一府主教を取り上げた,エウスタティオス(12世紀)の《モキッソス府主教は,恩人である至聖の総主教ミハエルの死去の翌日に入浴中,大オイコノモス職のパンテクネスの指令により,ベッドカバー,湯上りタオルその他が取り上げられ,まちの貧乏人たちに施物として与えられたとき,何といったか》のような実話もどきのものも含まれている。修辞学の技術を最高度に駆使した代表的なジャンルが,皇帝や国家・教会高官にささげられた,エンコミアenkōmiaと呼ばれた数多くの賛美演説,その反対の,プソゴスpsogosと呼ばれた非難演説(なかでも興味ある一事例は,皇帝ユリアヌス作のアンティオキア市民に対する《ひげ嫌い》の作品),墓碑銘と弔辞,その他の機会の演説,君主の鑑(たとえば,アガペトスがユスティニアヌス1世に,オフリト大主教テオフュラクトスがドゥカス家のコンスタンティノスに,ニケフォロス・ブレミュデスが弟子たる若き皇太子テオドロス2世ラスカリスに,マヌエル2世が後継者たる子のヨハネス8世にあてたもの),自伝(リバニオス,ナジアンゾスのグレゴリオス,ミハエル8世,キュドネス・デメトリオス),都市や教会の描写(テオドロス・メトヒテスのコンスタンティノープル,パウロス・シレンティアリオスのハギア・ソフィアなど)などである。

ビザンティン帝国の歴史はそのほぼ全期間がプロコピウスプセロスアンナ・コムネナ,ニケタス・ホニアテスNikētas Chōniatēs(1155ころ-1215・16),ヨハネス6世カンタクゼノスIōannēs Ⅵ Kantakouzēnos(在位1341-54)その他の史書や,歴史の主人公でもある皇帝,皇子,皇女,高官などの自身による同時代史叙述によっておおわれている。歴史家の多くは叙述場面への自己投入の卓越した技術を自家薬籠中のものとし,また,皇帝とその政策をしばしば批判の対象に据える。古典の伝統に立つ歴史叙述と並んで,テオファネスをはじめとする編年体の年代記がある。その他コンスタンティノス7世は,古代およびビザンティン時代の文学の抜粋,編纂の百科全書的事業と並んで,ビザンティン宮廷の有職故実や,史書の編纂をも主宰した。

ギリシア古典の維持と奨励のため,文法(マヌエル・モスコプロスの《文法問答》,トマス・マギステルの《アッティカ語名詞・動詞撰》),正書法(ヨハネス・ハラクス,テオグノストス),辞書(フォティオスや,いわゆるスイダスないしスダ)などのほか,古典の校訂と注釈(ヨハネス・ツェツェス,テッサロニキのエウスタティオスのホメロスに対するもの,プラヌデスのヘシオドスエウリピデスソフォクレスアリストファネスに対するもの)並びに抜粋(フォティオスの《千書》や,10世紀末コンスタンティノープルで編纂された,前1世紀からビザンティン時代に及ぶギリシア・エピグラム集《パラティナ詞華集》)などがある。

韻文,散文での(ただし両者の境界は必ずしもそれとして意識されなかった)いわゆる文学作品としては,まず叙事詩として,神話に取材したノンノスNonnos(5世紀)の《ディオニュソス譚》,ヨハネス・ツェツェスIōannēs Tzetzēs(1110以降-80以降)の《アンテホメリカ・ホメリカ・ポストホメリカ》,史実に取材したゲオルギオス・ピシデスGeōrgios Pisidēs(?-631か634)のヘラクレイオス帝賛歌や,コンスタンティノス・マナセスKōnstantinos Manassēs(1130ころ-87)の韻文年代記などがある。

 ロマンでは,古代末期のアキレウス・タティオス,ヘリオドロスの系統を引き,12世紀に突然開花する幻想的手法の恋愛ロマンとして,15ないし12音節詩のコンスタンティノス・マナセスの《アリスタンドロスとカリテア》,テオドロス・プロドロモスTheodōros Prodromos(12世紀)の《ロダンテとドシクレス》,ニケタス・エウゲニアノスNikētas Eugenianos(12世紀)の《ドロシラとハリクレス》,散文形式のエウマティオス・マクレンボリテスEumathios Makrembolitēs(12世紀後半)の《ヒュスミネとヒュスミニアス》がある。その他,少なくないコイネー聖人伝文学も,ジャンル上ロマンに属する。

独立形態としては消滅したが,12音節詩で,テオドロス・プロドロモスの《猫鼠合戦》や,同じ時代の作者不詳の《受難のキリスト》(3分の1がエウリピデスその他の古典悲劇からの転用)が,散文形式では,ルキアノスを範とし,10世紀編纂と推定される《愛国者》があり,いずれも冥府行きを主題とした風刺文学作品である,12世紀の作者不詳《ティマリオン》および15世紀のマザリスの創作が,問答形式という点で演劇的要素を多分に含んでいる。ロマノス・メロドスの教会詩についても同じことがいえる。

《パラティナ詞華集》とその続編《プラヌデアス詞華集》に収められた,キリスト教徒ナジアンゾスのグレゴリオス(4世紀後半)および同時代の異教徒パラダスPalladas(4世紀末~5世紀)以下のビザンティン・エピグラム作品は,しばしば日常性とのアクチュアルなかかわりを見せる。

民衆文学は,ビザンティン文学のなかで,用語の点のみならず,古典に対する恩義意識ならびにフィロロギーの重荷から自由である点でも,教養文学から区別される一方,ビザンティン民衆文学として,インド,ペルシアから西ヨーロッパにわたる中世の世界文学の一結節点を表している。

 本格的な中世民衆用語を用いた文学作品が12世紀に初めて出現するに先立って,教養文学とは明らかに立脚地点を異にした一文学が,コイネーを用語として姿を現す。その際,古代末期の伝統に立っているのが,アイソポスの名を冠した寓話文学作品,カリステネスの名を冠したアレクサンドロス大王伝説である。その素材がオリエントにさかのぼるのが,仏陀伝説にもとづく《バルラームとヨアサフ》,サンスクリット文学の《パンチャタントラ》のギリシア語版《ステファニテスとイクネラテス》,ヘレニズム的な枠小説のなかにペルシア起源の要素をとりこんだ《シュンティパス》などである。ビザンティン帝国東部国境でのイスラム教徒アラブとの軍事対決を背景として,《アルムリスの歌》以下の叙事詩的歌謡,そしてなかでもイスラム教徒とキリスト教徒の二つの家族の血を引く英雄を主人公とした《ディゲニス・アクリタス》が生まれる。

 12世紀をもって,民衆用語で書かれ,大都会を背景に自らの時代と向きあう一文学が現れる。恐妻物語,売文詩人譚,哀れな修道士,むだな教育,を内容とする詩作品で,著者が教養文学のテオドロス・プロドロモスと同一人物かどうか論争がある,いわゆる《プトコプロドロミカ(哀れな先駆け4人の作品)》,実生活についての,著者不詳の教訓詩《スパネアス》,そして教養文学作品《世界年代記》の著者でもあるミハエル・グリュカスMichaēl Glykas(?-1204ころ)のいわゆる獄中詩,の3点がそれである。

 低迷期の13世紀を経て,14~15世紀に相次いで現れる民衆文学作品の筆頭に挙げられるべきは,民衆用語による三大恋愛ロマン詩作品,《カリマコスとクリュソロエ》《ベルタンドロスとクリュサンツァ》《リュビストロスとロダムネ》である。これらは,同じく古代末期のロマンの系統を引きながら,一部ナイーブな自然感情の流出がみられ,また,ビザンティン的現実を陰画としてであるが反映する点で,12世紀の教養文学作品,幻想的ロマンとは明らかに異質のものである。同じ系統に属するのが,詩作品《アキレウス物語》,および,コイネーのアレクサンドロス大王伝説を,民衆用語で独自に手を加えた,詩ならびに散文の作品である。これに対して西ヨーロッパからの影響が刻み込まれた三大恋愛騎士ロマン詩作品が,《テュロスのアポロニオス物語》《フロリオスとプラツィア・フロレ》《インペリオスとマルガロナ》である。ロマンの衣をまとった教訓的寓話詩としては,不幸に見舞われた男の,女性に人格化された不幸および幸福の歴訪談《不幸と幸福》,奴隷に売られた老人が,主人である王のもとで千里眼を発揮する《哀れなレオン》(オリエント起源の童話主題を多く含む),幸福と嫉妬に翻弄される名将軍ベリサリオスをテーマとする《ベリサリオスの歌》である。ビザンティン領土でのフランク人国家の成立を歴史的背景に,《モレア年代記》はフランス騎士のギリシア征服を,《トッコ家年代記》はこのイタリア出身の家族のエピロス支配を,ともに詩形態で描く。またオスマン・トルコのスルタン,バヤジト1世のコンスタンティノープル包囲(1402),ティムールのアナトリア侵入と,アンカラの戦での同スルタンに対する勝利・略奪を《ティムールにまつわる悲歌》が,そして,コンスタンティノープル陥落を一連の《悲歌》が歌いあげる。《イーリアス》のビザンティン民衆文学版を,コンスタンティノス・ヘルモニアコスKōnstantinos Hermoniakos(14世紀前半)が,ヨハネス・ツェツェスのホメロス寓話やコンスタンティノス・マナセスの年代記に拠りながら編纂し,古典のホメロスからはますます遠ざかる。動・植物世界に素材を仰ぎながら,それをもはや寓話風にでなく,社会風刺風に扱うのが,一連の詩作品《鳥物語》《四足物語》《尊敬すべきロバ聖人伝》,および散文作品の《果物物語》《魚物語》である。コイネーで書かれた,自然のキリスト教的象徴解釈《フュシオロゴス(自然のもの知り)》は民衆用語で韻文化され,寓話的,神秘的であるより道徳的となる。

 1453年のコンスタンティノープル陥落はビザンティン民衆文学史にとって,なんら終焉を意味しない。オスマン・トルコ支配下での発展に連なってゆく端緒として,たとえば,《ロドスの愛の歌》以下の韻文詩集,宦官男を揶揄(やゆ)した風刺文学作品《ひげなし男のミサ》などが挙げられる。
ギリシア文学
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ビザンティン文学」の意味・わかりやすい解説

ビザンティン文学
びざんてぃんぶんがく

4世紀にローマから分かれて成立した東ローマ帝国(ビザンティン帝国)は、実質上、ヘレニズム文化を継承するギリシア帝国に等しかった。したがって、そこで生み出された文学(ビザンティン文学)は、古代ギリシア文学の延長線上にあり、その言語も古いギリシア語を手本としたものであった。しかし内容は、ギリシア・ローマ的基調にキリスト教的色合いが強く加わり、さらに東方の影響が加味されたものであった。

 ビザンティン文学は次の三期に分けることができる。第1期(4世紀~7世紀初頭)―古代型の文学にかわり、新しいキリスト教的型式が生み出されていった時期。第2期(7世紀中期~9世紀中期)―外異の諸民族との抗争に慌ただしく、文学活動が沈滞した時期。第3期(9世紀後半から1453年のビザンティン帝国滅亡まで)―文運復興の時期で、文学の素材や言語に民衆的要素が現れた時代。

 ビザンティン文学には、このような時代的区分のほかに、宗教文学と世俗文学、純正語(学者語)文学と民衆語(俗語)文学、などの分け方もあるが、ここでは形式上から、散文と詩に分けて考察する。

[関本 至]

散文

まず膨大な量の神学書(聖書解釈、教義論、宗教論争、説教などを含む)がある。とくに4、5世紀は、アタナシウス、バシレイオスらをはじめとする教父たちの活躍した時期であった。教父文学には、その表現や思弁の傾向に、ヘレニズム時代の修辞法や哲学の影響が多分にみられ、また東方の禁欲主義の影響も看取される。これらを模範として、その後、多くの神学書が書かれたが、6世紀以降は聖像破壊論争(イコノクラスム)と神秘主義の発展のほか、さほど独創的なものはみられない。

 次に、ビザンティン文学のなかでも、とくに際だった部門の一つとして歴史書がある。エウセビウス(4世紀)、プロコピオス(6世紀)そのほか大ぜいの歴史家の手になる宮廷史、政治・外交史、教会史、年代記、自叙伝などのおかげで、われわれはビザンティンの歴史をほとんどくまなく知ることができる。なかでもアレクシオス1世の娘アンナ・コムネナが父皇帝の事績を記した『アレクシアス』全15巻(12世紀)や、ビザンティンの滅亡を記録した4人の歴史家の史書などは、とくに注目すべきものである。またビザンティンの歴史書は、この帝国と接触をもった数多くの民族についての貴重な情報を提供することにおいても価値は高い。

 また古代にはみられなかった特異な世界年代記が、多くは僧侶(そうりょ)の手によって大衆向けにつくられた。伝記では、神学者アタナシウスの『聖アントニウス伝』(4世紀)が聖徒伝のモデルとなった。聖徒伝や各種の伝記には、聖徒の行跡の正確な記述から、空想譚(たん)、冒険譚に類するものまで、さまざまの種類がある。その多くは民衆語で書かれ、大衆を教化する役割をもつとともに、また娯楽に供せられるものでもあった。さらに、聖書中のエピソードをもとにつくった聖書物語や、ヘレニズム時代の恋愛物語を模倣したものなどもある。異色の作品は僧ヨアンネス(7世紀)の『バルラアムとヨアサフ』で、これは仏陀(ぶっだ)伝をキリスト教風に翻案したものである。散文学には、このほか、ルキアノスを模した風刺文学や、修辞学的作品、書簡集などがある。

[関本 至]

文人詩には、教訓詩、風刺詩、その他さまざまのものがある。初めは、形式、内容とも古代文学を模倣したものが多かったが、のちには日常生活のあらゆる事柄が素材とされた。貧窮と庶民感情を歌い上げたプロドロモスTheodorus Prodromus(1075ころ―1153ころ)のような特異な作家もいる。礼拝式用の宗教賛歌が発達し、それには古典的ミーター(諳律(あんりつ))にかわって、強弱アクセントに基礎を置くミーターが早くから取り入れられたことも注目しなくてはならない。物語詩は、ヘレニズム小説を土台とした粗末なものから、13世紀になると十字軍による西欧の影響を受けた騎士道と恋の詩が現れてきた。叙事詩中の白眉(はくび)は『ディゲニス・アクリタス』(11世紀ごろ成立)である。アラブの太守とビザンティンの名家の娘との間に生まれたディゲニス・アクリタスの武勲や恋、そしてユーフラテス川畔での平和な晩年と死を歌ったものである。叙情詩と劇は振るわなかった。若干の劇がつくられたが、古典劇と同様、実演はされなかったらしい。このことは、ギリシア正教のもつ非現世的な姿勢とかかわりがありそうである。

 ビザンティン文学は、概していえば、宮廷人、学者、僧侶の手になる文学であった。彼らが伝統を重んじ、古典を保存した功績は大きく、西欧ルネサンスもそのおかげを被った。しかし時代の下るにつれて、古典の伝統からはみでた庶民の日常語による文学、とくに民衆詩が地方に発生し、近代のギリシア文学へとつながってゆく。

[関本 至]

『関本至著『現代ギリシアの言語と文学』(1987・渓水社)』

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