改訂新版 世界大百科事典 「スラブ神話」の意味・わかりやすい解説
スラブ神話 (スラブしんわ)
紀元後1000年末までのスラブ民族全体の神話をさす。しかしスラブ人は9世紀以前には文字をもたなかったために固有の神話テキストを記録として残していない。また,9世紀から12世紀にかけてスラブ人の居住する各地で行われたキリスト教への改宗によって,それ以前に存在していた異教信仰が破壊され,異教に関する断片的な記述もキリスト教の立場からなされたために,異教時代の神話を正確に伝えるものではない。推定しうるスラブの神話は各地域ごとに数多くのバリアントをもっており,スラブ全体として統一された神話体系は存在しない。地域別に見れば,東スラブ,バルト・スラブ(エルベ川とオーデル川の間の北部に住む西スラブ民族)地域では他地域に比べ資料もより多く,共通スラブ時代後半の神話世界を比較的よく残している。それに対し西スラブ,南スラブについては資料も少なく,わずかに各地方のバリアントによって神格の存在を伝えるのみである。
神々の起源
10世紀の東スラブに異教神のパンテオンが存在していたことを伝える数少ない記述の一つとして《原初年代記》(別名《過ぎし年月の物語》)がある。ここには雷神ペルーンPerunをはじめとして,家畜と富の神ベーレスVeles(ボーロスVolos),太陽神としてダージボグDazh'bogとホルスKhors,火の神スバローグSvarog,風の神ストリボーグStribog,女性労働の守護神モーコシMokosh',七頭神セマールグルSemarglの名前があげられ,それらの偶像がキエフ大公ウラジーミルによってキエフの丘の上に建てられていたことが記されている。この中でストリボーグはインド・ヨーロッパ語族に起源をもつもの,ホルスはエジプトの太陽神とつながるもの,スラブに広く存在したモーコシはフィン系民族の女神にさかのぼると考えられる。あるいは別の説によれば,セマールグル,スバローグ,ホルスにはインド・イラン系神話とのつながりが認められ,スキタイ,サルマート系民族からの借用とも推定されている。
神々の分類
神話に登場する神格はその機能と特質によって次の3種類に分類できる。まず第1に,より抽象化された神の機能をもつもので,これは儀礼と法,軍事,産業と自然に関するもので公的な崇拝の対象となる。初期国家成立期の大神格を構成した。特にペルーンとベーレスの二つは共通スラブの主神である。天と地の代表者として主権者と生産者の機能をもっていた。雷神神話では天界,山頂に住むペルーンが,大蛇の姿で地上に住む敵対者と争う。それはベーレスが家畜や人間またはペルーンの妻を略奪したことを契機としている。追撃されたベーレスは木や石の背後に姿を隠し,人間や牛馬に変身する。ベーレスとの決戦においてペルーンは稲妻で木を引き裂き,石を砕き,矢を放ち,最後は肥沃と豊穣をもたらす雨によって勝利を得る。そのほかにスバローグ,バルト・スラブのズアラシズZuarasiz,ダージボグ,南スラブのダーボグDabog,ロシアのヤリーラYarila(ヤリーロYarilo),ヤロビートYarovit,原スラブでは名前不詳の女性神が大神格に含まれる。
次に産業のサイクル,季節儀礼,小集団との結びつきを示す神格が存在する。ここには東スラブの祖霊で出産と運命の神ロードRod,糸紡ぎの女神モーコシその他多くの女性神が含まれる。最後に最も抽象化された機能をもつ神格として運命,悪,真理,虚偽,死など特殊な機能の人格化したものがあげられる。南スラブの幸福の神ベロボーグBelobog,バルト・スラブの不幸の神チェルノボーグChernobogもここに含まれるであろう。
以上あげたもの以外に,歴史上の人物が神格化した例として東スラブのキイKii,シチェークShchek,ホリフKhoriv,西スラブのツェフTsekh,リャフLyakh,クラクKrakなど共同体の始祖となった系譜上の英雄があり,神話的叙事詩に登場する。またロシアの魔女ヤガーばあさん,不死のコシチェーイ老人,寒さのモローズ爺といった昔話に登場する存在,民間信仰に現れる自然と文化の現象にちなんだ多くの精霊(ロシアの水の精ボジャノーイVodyanoi,森の精レーシーLeshii,家の精ドモボーイDomovoi,水と森の精ルサールカRusalkaなど)もスラブの神話世界を構成する。こうした昔話の形象や精霊はかつてはより大きな異教的神格であったと想像される。キリスト教の導入によって異教信仰が変形していった例としては,ペルーンが聖者イリヤに,ベーレスが聖者ブラーシーに,モーコシが聖金曜日の女聖者パラスケーエバに取って代わったことがある。これら聖人のイメージは近代の民衆生活において崇拝の対象として根強く保存された。
研究史と芸術分野における受容
神話研究は19世紀半ば以降に民族(俗)学,言語学,考古学など関連分野の進展,ならびにドイツやイギリスの神話学研究の影響とともに始まり,ロシア神話学派と呼ばれる一連の研究者が輩出した(F.I. ブスラエフ,A.N. アファナーシエフ,A.A. ポチェブニャー,O.F. ミルレルら)。その後は明確な神話テキストが存在しないこともあって,研究は民間信仰や伝説研究あるいは考古学のレベルで行われた。1960年代以降,ソ連の言語学者V.V.イワーノフ,V.N.トポロフ,N.I.トルストイ,B.A.ウスペンスキー,考古学者B.A.ルイバコフ,叙事詩研究者E.M.メレチンスキーらによって古代スラブの神話世界を再構築しようとする野心的な試みが相次いで行われている。
文学や絵画における神話の受容と表現は,文字による神話テキストがなかった点で西欧のギリシア神話の場合とかなり異なるが,I.Zh.ビリービンの絵画,ゴーゴリ,ツベターエワ,マンデリシュタム,パステルナークらの作品に多くの影響を見いだすことができる。
執筆者:坂内 徳明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報