スキタイ(読み)すきたい(英語表記)Scythian

翻訳|Scythian

日本大百科全書(ニッポニカ) 「スキタイ」の意味・わかりやすい解説

スキタイ
すきたい
Scythian

ユーラシア内陸の広大な草原地帯で活動した世界最初の騎馬遊牧民。スキテスともいわれ、イラン系言語を話すインド・ヨーロッパ語族に属するが、その起源については諸説があり定説はない。ギリシア人はスキタイペルシア人はサカとよんでいたが、彼らは固有の文字をもたなかったので、彼らが自分たちをどうよんだかもわからない(ギリシアの歴史家ヘロドトスは、スキタイが自らを「スコロイト」とよぶと書いている)。またスキタイという名称は、黒海北岸一帯のさまざまな遊牧民全体につけられた名称である。生活様式や文化に関しても、ヘロドトスらの記録によることが多い。

[清水睦夫]

ヘロドトスによるスキタイ

ヘロドトスの『歴史』によれば、スキタイは太古から黒海北岸に住んでいたという。しかしまた、スキタイはアジアの遊牧民であって、紀元前8~前7世紀に東方(おそらくは中央アジア)から西に進み、ボルガ河畔に出現し、先住人のキンメリア(キンメル)人を追い払い、南ロシア草原に強大なスキタイ国家を建設した。そして、前4世紀にはドン川の東方から到来したサルマートサルマタイ)人に攻撃され、スキタイは北カフカスのクバン地方を放棄して、本拠を西方に移動した。スキタイの勢力圏は、クリミア半島ドニエプル川・ドン川下流域など黒海北岸一帯を含み、西はドナウ川南部に及び、東はカフカス地方を越えて小アジアにも及んでいたという。しかし前3世紀中ごろにはサルマートによって決定的に圧迫されて勢力を失った。

[清水睦夫]

考古学の成果によるスキタイ

近年、スキタイに関する考古学的発掘調査は大きな成果をあげており、記述史料の欠落部分が補充できるようになり、スキタイ文化の起源や発展過程、その特質などが明らかにされつつある。スキタイの起源を、前1200~前700年ごろボルガ川下流域に興っていた青銅器文化(フバリンスク文化)の創成者と考える学者もいる。また19世紀以来の研究を受けて「スキタイ考古学」進展に大きな業績をあげたソ連の研究者たちは、竪穴(たてあな)古墳文化から地下横穴古墳および後期木槨墳(もっかくふん)文化への過程を経てスキタイ文化が出現したと主張している。スキタイ文化圏は、スキタイ型古墳(クルガン)の分布する範囲とほぼ一致し、その範囲は古代の著述家がスキティアScythiaとよんだカルパティア山脈とドン川の中間域にあたる。

 ヘロドトスはスキタイを、それぞれ居住圏の異なる四つの群に分け、西から「農耕スキタイ」「農業スキタイ」「遊牧スキタイ」「王族スキタイ」とよんでいる。ソ連の考古学者は古墳(クルガン)、集落址(し)(ガラディーシチェ)などの遺跡や出土遺物から、この4群にほぼ合致する四つの文化圏を設定している。そのうち、アゾフ海の北、ドニエプル川とドン川との間の草原帯を本拠として、いわゆるスキタイ王国を形成したのが、本来のスキタイ、つまり王族スキタイとされる。スキタイ文化の編年も、この王族スキタイを基準として設定されている。

[清水睦夫]

スキタイ文化

精悍(せいかん)な遊牧民族であったスキタイは、ウシの引く天幕の小屋で生活し、所有するウマの多寡で富が決められた。戦闘のときには、ギリシア式青銅製甲冑(かっちゅう)と鎖かたびらの胴着をつけ、アキナケス型短剣や弓矢をもち、軽装騎兵隊を編成した。機動性に富み、強敵ペルシア人を悩ますほど戦術に巧みであった。

 ドニエプル川下流のニコポリス近傍での考古学調査により、この地域がスキタイ王国の政治・経済の中心地であったこと、そして黒海北岸域のギリシア植民市から陶器、織物、金属製品、油などを輸入し、家畜穀物、毛皮、奴隷などを提供する、広範な通商取引で富裕な階層が成立したことなどが確認された。そして前4世紀ごろには上層のスキタイ貴族の間で、婦人、奴隷、ウマなどの殉葬を伴った壮大な古墳(高さ20メートル以上)が営まれるようになった。それらの古墳からは副葬品として、金・銀・銅製の壺(つぼ)や、スキタイ特有の青銅の鍑(かま)、平底手捏(てづく)ねのスキタイの陶器やギリシア風の磨研土器、多様な装飾文様をもつアンフォーラ、スキタイおよびギリシア人工匠の手になる精巧な宝飾品などが発掘されている。また戦士の墳墓からは各種の武器(アキナケス型短剣、青銅の鏃(やじり)や矛頭(ほこがしら)、鉄製の槍頭や闘斧(とうふ))などが出土した。

[清水睦夫]

スキタイの美術

ロシア連邦のエルミタージュ美術館などには、中央アジアや南ロシア草原で発見されたおびただしい数のスキタイ文化の収集遺物が展示されている。クバン地方のカストロムスカヤ古墳、ケレルメス古墳、ウリスキー古墳、エリザベンスカヤ古墳、ドニエプル川下流域のソロハ古墳、チェルトムルイク古墳、アレクサンドロポルスク古墳出土のもので、これらの遺物総体は独自なスキタイ美術の粋を示すと同時に、スキタイ社会のさまざまな様相を示している。とくに武器・武具・馬具などの装飾文様としての動物の姿や闘争を浮彫りまたは透彫りで表現した躍動的な「スキタイ風動物意匠」は、スキタイ美術の極致を示している。この動物意匠とスキタイ特有の三翼鏃(さんよくぞく)の普及範囲は、スキタイの進出方向と文化圏を同時に示す指標と考えられる。それによれば、現在のハンガリーやドイツにまで足跡をしるし、またポーランドのビスワ川流域の原スラブ人の文化(ラウジッツ文化、前1300~前500)を破壊したのもスキタイといわれる。広大な内陸ユーラシア草原地帯を舞台に展開された東西文化交流に大きな役割を果たしたスキタイの起源や「スキタイ・シベリア型文化」の由来など、今後の研究にまたれる課題は多い。

[清水睦夫]

『角田文衛編『世界考古学大系9 北方ユーラシア・中央アジア』(1962・平凡社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スキタイ」の意味・わかりやすい解説

スキタイ
Scythians

前6世紀から黒海北岸の草原地帯を支配したイラン系騎馬民族。前7世紀の後半にはすでに西南アジアや小アジアを荒し,クバン地方を中心として支配していたキンメリ人を征服して,南ロシアの草原に強力な支配体制を築き上げた。前6世紀の後半にはドナウ川下流,中流域に進出し,前 513年にはペルシアのダレイオス1世の遠征軍を撃退している。前4世紀には統一的な大王国を形成,前 339年にマケドニアのフィリッポス2世と戦ったアテアス王は最も著名なスキタイ王であった。しかし前 300年以降はケルト人に圧迫されはじめ,前 260年頃からは東のサルマート人がドン川を渡って侵入してきてその攻勢に押され,わずかの者がクリミア半島とドブルジャに避難したが,ローマ帝国のもとでスキタイ王国は崩壊した。馬具,武器,動物意匠 (美術) において独特の発達をとげたが,これをスキタイ文化の3要素という。彼らの風俗,習慣についてはヘロドトスの『歴史』に詳しい。

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