ロシアの小説家、劇作家。
本名ゴーゴリ・ヤノフスキー。1809年3月20日(旧ロシア暦。新暦では4月1日)、ウクライナのポルタワ県、ベリーキエ・ソローチンツィ村に小地主の子として生まれ、父の領地ワシーリエフカ村で育った。ネージン市の高等学校時代(1821~1828)には文学に興味をもち、回覧雑誌に習作を載せたり、演劇活動に熱中したりしたが、1828年、「国家と同胞の幸福」に奉仕するという漠然たる決意を抱いて首都ペテルブルグへ出た。
[木村彰一 2018年7月20日]
翌1829年、決意実現の第一歩として、すでに高校在学中に書き始めていたロマン的な物語詩『ガンツ・キューヘリガルテン』をV・アロフの筆名で自費出版したが、さんざんの酷評を受け、作者は残部を書店から回収して焼却した。その後、内務省の下級官吏としてかろうじて生計をたてていたが、1830年、雑誌『祖国雑記』に中編『ビサウリューク、あるいはイワン・クパーラの前夜』を無署名で発表したのが機縁となってジュコフスキーやプーシキンらと相知るようになり、1831年にはウクライナの民俗や伝説に取材した、前記『ビサウリューク……』を含む物語集『ジカニカ近郷夜話』第1集、1832年には第2集を刊行、好評を博して一躍有名作家の仲間入りをした。大部分は「気取りもけれんもない」(プーシキン)、明るいユーモアに満ちたロマン的色彩の強い物語で、細部のリアルな描写と幻想性の独特な結合は、後のゴーゴリの特質を早くも予告している。
[木村彰一 2018年7月20日]
他方、歴史に対する関心が急速に深まり、1834年にはペテルブルグ大学世界史講座の助教授になり、中世史を講じたが、専門的知識を欠いていたためたちまち行き詰まって翌1835年辞職。だが皮肉なことに創作力のほうはこの2年間に爆発的な高まりをみせ、評論・作品集『アラベスキ』2巻、作品集『ミールゴロト』を1835年に相次いで上梓(じょうし)した。後者の『ビイ』や『タラス・ブーリバ』は『ジカニカ近郷夜話』同様ロマン的な傾向が強いが、『昔かたぎの地主夫婦』『イワン・イワーノビチがイワン・ニキーフォロビチと喧嘩(けんか)をした話』、さらに「ペテルブルグもの」と総称される前者の『ネフスキー通り』(初稿、1842年改作)、『肖像画』『狂人日記』には、ウクライナの小地主やペテルブルグの下層市民の日常生活のリアルな描写や、人生の卑俗さや愚かしさに対する作者の絶望ないし恐怖を反映する悲しい笑い、この作者独特のいわゆる「涙を通しての笑い」が現れ始めていることが注目される。なお1836年には、同じく「ペテルブルグもの」に属する短編『鼻』を発表した。
[木村彰一 2018年7月20日]
1835年には、代表作の一つである喜劇『検察官』も一気呵成(かせい)に書き上げられたが、これが翌1836年4月、ペテルブルグで皇帝ニコライ1世臨席のもとに上演されるや一大センセーションを巻き起こした。これによって初めて自己の作家としての才能と道徳的使命をはっきり自覚したゴーゴリは、外部からロシアの現実をより深く洞察する目的で6月西欧へ赴き、以降1848年まで、二度の短期間の帰国を除けばほぼ12年間、ドイツ、フランス、スイス、とくにローマに滞在しつつ、長編『死せる魂』第1部の執筆に没頭するとともに、『タラス・ブーリバ』『肖像画』『検察官』などの改作に従い、また「ペテルブルグもの」の最高傑作とされる『外套(がいとう)』(1842)を書いた。しかし『死せる魂』第1部公刊(1842)後、作者はしだいに宗教的、神秘的精神状態に陥り、『死せる魂』第2部においては、肯定的な人物形象の創造によってロシアの輝かしい未来を暗示しようと企てるに至った。
[木村彰一 2018年7月20日]
こうしたモラリスト的使命感は、人生の否定的な面に対する感覚が病的なまでに発達した彼の芸術的才能と完全に背馳(はいち)するものであったために、結果は惨憺(さんたん)たる失敗に終わらざるをえず、1845年、ゴーゴリはそれまでに書いた原稿を焼却した。ついで自己の宗教的・道徳的理想を私信の形で説いた『交友書簡選』(1847)を出したが、ここに示された宗教や政治の大問題に関する作者の幼稚、浅薄、かつ反動的な見解は、彼の保守的な友人たちをすら驚かせ、批評家ベリンスキーに、「笞(むち)の伝道者、無知の使徒、反動的蒙昧(もうまい)主義の擁護者、タタール的習俗の賛美者……足もとを御覧なさい。あなたは深淵(しんえん)の上に立っているのです」という有名な一句を含む痛烈な弾劾の手紙を書かせる機縁ともなった。
とはいえ、『交友書簡選』がどのように奇妙な作品であったにせよ、彼が突如として「進歩の友」から「反動的蒙昧主義の擁護者」に変貌(へんぼう)したというベリンスキーの解釈は明らかに不当であった。ベリンスキー、ないし当時の急進的知識人たちがゴーゴリに傾倒したのは、『検察官』や『死せる魂』を、彼ら自身の理想とする、現実を忠実に再現すると同時に社会変革のための戦いに役だつ作品とみたからにほかならない。ところがゴーゴリは純粋に道徳的な風刺を意図していたにすぎず、ロシアの体制そのものの変革はかつて望んだことがないばかりか、シェークスピアを思わせるような、超人的ともいうべきたくましい創作力にもかかわらず、教養はおそらく19世紀ロシアの主要作家のなかでももっとも貧しく、視野は狭く、少なくとも、政治問題や社会問題に対する見解は、彼が作家として有名になったのちも、片田舎(いなか)の無知な保守的な信心家の女地主であった母親のそれの域をたいして出てはいなかったのである。
1848年、宿願のパレスチナへの巡礼旅行を終えてロシアへ帰ってからは、もはや国外へ出ることなく、いったん焼き捨てた『死せる魂』第2部の執筆を続け、1851年末には完成に近づいていたらしいが、他方、在外時代から霊的指導者として文通していた神父マトベイ・コンスタンチーノフスキーMatvey Konstantinovskyの影響も手伝って、「神の啓示なしに」作家としてとどまることに罪悪感を抱くようになり、1852年2月、完成直前の『死せる魂』第2部の原稿をふたたび焼却、その後まもなくなかば錯乱した状態で断食に入り、2月21日(新暦では3月4日)朝、絶命した。なお『死せる魂』第2部未定稿の現存する断片は、概して作者の名を辱めぬできばえを示しており、これによってゴーゴリの芸術的才能が、「霊的自己教育」への熱烈な希求にもかかわらず、最後まで彼を見捨てなかったことがわかる。
[木村彰一 2018年7月20日]
作家としてのゴーゴリは、ソ連ではロシア・リアリズム小説の創始者の一人とされるが、彼が種々の点で他のリアリストたち(たとえばツルゲーネフ、ゴンチャロフ、レフ・トルストイ)と違っていることも確かである。外界の事象を、冷静な観察者としてでなく、つねに作者のいわゆる「笑い」と「目に見えぬ涙」を通して描く手法(ベリンスキーはこれを彼の「主観性」とよんだ)。精密に観察された外面的特徴のデフォルマシオンによる戯画的人物形象の創造。社会的とみえながら、実はもっぱら道徳的見地からなされる風刺。華麗でリズミカルな文体。とはいえ、他方において、彼の描く戯画的人物がつねに強固な現実感覚に支えられていて、むしろ現実の人間以上に生き生きした印象を与えることも否定できない。要するにゴーゴリは「リアリスト」というような規定を与えるにはあまりに特異な、かつ偉大な天才の一人であったというほかはないようである。
[木村彰一 2018年7月20日]
『横田瑞穂・野崎韶夫他訳『ゴーゴリ全集』全7巻(1976~1977・河出書房新社)』
ロシアの小説家,劇作家。ウクライナの小村ソロチンツィでコサックの血筋を引く小地主の家に生まれた。中学時代から文学,演劇に関心をもつ一方で,将来は国家に奉仕して一大善行をなそうという志も抱いていた。中学卒業(1828)後,首都ペテルブルグへ出て官職を得ようとして果たせず,在学中に書いた田園詩《ガンツ・キューヘリガルテン》(1829)を自費出版したが問題にされなかった。その後,生活のためにやむなく下級官吏となり,二,三の新聞・雑誌にエッセーなどを投稿。ウクライナの農村を舞台にした短編《イワン・クパーラの前夜》(1830)が好評を博し,これを含む同種の短編八つから成る小説集《ジカニカ近郷夜話》2巻(1831,32)を世に問い,一躍文名があがった。これらの作品は民間伝承に取材したおとぎ話的世界であるが,幻想と細部のリアルな描写とが一体となり,陽気と諧謔と無気味さの入り混じった詩的物語である。この頃にプーシキン,ジュコーフスキーらと知り合い,前者からは大きな影響を受けて作家としての志を深めた。その結果生まれたのが《昔かたぎの地主たち》《タラス・ブーリバ》《ビイ》《イワンとイワンがけんかした話》から成る〈ウクライナもの〉の作品集《ミルゴロド》(1835)と〈ペテルブルグもの〉と呼ばれる都会小説の《ネフスキー通り》(1835),《狂人日記》(1835),《肖像画》(1835),《鼻》(1836)である。《ミルゴロド》では空虚な人間精神に対する恐怖がユーモアの底に秘められ,〈ペテルブルグもの〉では,醜悪で卑俗な現実に対する風刺や憎悪と,その現実に敗れていく〈小さな人間〉の心の痛みとが〈涙を通しての笑い〉で描かれている。その最高傑作が《外套》(1842)である。しかし,官僚社会の悪を徹底的に暴いた戯曲《検察官》(1836初演)が賛否の激しい論争を巻き起こしたため,ゴーゴリは外国旅行に出た。以後1836年から48年に至る12年間を外国,とくにローマで過ごし,1835年から執筆を始めていた生涯の大作《死せる魂》第1部(1841)の完成に没頭するとともに,小説《ローマ》(1841),エッセー《芝居のはね》(1842),戯曲《結婚》(1842),前記の《外套》などを書いた。ところが,悪のいっさいを描いた《死せる魂》の完成ころから,〈悪〉のみを描く自己の存在に疑念を抱くようになり,自分の魂を浄化しなければならぬという考えにとりつかれて宗教的・神秘的世界にのめりこんでいき,ロシアの専制政府を擁護するエッセー《友人との往復書簡選》(1847)を刊行,一方で悪人の更生を目指した《死せる魂》第2部を書いたものの成功せず,原稿を焼却した後に錯乱状態で断食に入り,そのまま10日後に没した。
ゴーゴリはロシア・リアリズムの祖とされるが,グロテスク,誇張などで細部を拡大し,それを積み重ねることによってリアリティを感じさせるその手法は独特であり,20世紀のモダニズム文学に大きな影響を与えた。
執筆者:灰谷 慶三
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1809~52
ロシアの作家。ロシアにリアリズム文学を確立した。『ネフスキー通り』『外套』『鼻』『検察官』で社会の退廃,官僚の不正を鋭い風刺をもって描き,農奴制ロシアに題材をとった長編『死せる魂』を執筆中狂死した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…ロシアの作家ゴーゴリの長編小説。完成(1841)までに7年が費やされた。…
…タタール支配から解放された後もモスクワ公国は文化的鎖国政策をとり続け,いわば中世文化をそのまま温存した形で18世紀を迎えることになる。この中世文化はきわめて農民文化・民衆文化の色彩が濃厚で,たとえばゴーゴリの作品の中にみごとに反映されている。この中世的要素こそしばしば西欧側からアジア的と誤認される要素なのである。…
※「ゴーゴリ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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