現代外国人名録2016 「ディエゴマラドーナ」の解説
ディエゴ マラドーナ
Diego Maradona
- 職業・肩書
- サッカー指導者 元サッカー・アルゼンチン代表監督
- 国籍
- アルゼンチン
- 生年月日
- 1960年10月30日
- 出生地
- ブエノスアイレス郊外ラヌース
- 本名
- マラドーナ,ディエゴ・アルマンド〈Maradona,Diego Armando〉
- 受賞
- 欧州最優秀選手賞名誉バロンドール〔1995年〕,FIFA20世紀最優秀選手〔2000年〕
- 経歴
- 3歳でサッカーを始め、9歳でアルヘンチノス・ジュニアーズの少年チームにスカウトされ本格的に開始。15歳でプロデビューし、翌年にはアルゼンチン代表となった。その左足で魔術のようにボールを扱う天才プレーヤーで、“すべてのボールはマラドーナに渡り、マラドーナから始まる”と評されたほど。1981年ボカ・ジュニアーズを経て、’82年770万ドルでスペインのバルセロナへ。’84年には870万ドルでイタリア・セリエAのナポリへ移籍。2度のリーグ優勝など、数々のタイトル獲得に導き、当時付けていた背番号10はナポリの永久欠番となった。この間、アルゼンチン代表としては、’79年に日本で開かれた世界ユース選手権で優勝しMVPを獲得。W杯へは4度(’82年,’86年,’90年,’94年)出場。’86年のW杯メキシコ大会は“マラドーナのための大会”と言われたほどで、準々決勝では“神の手”ゴールや60メートル5人抜きドリブルで得点するなどアルゼンチン優勝の立役者に。名実ともに世界No.1選手となったが、’91年3月コカインの服用が判明し、4月麻薬所持現行犯で逮捕。’92年6月出場停止処分が解除され、9月スペインのセビリアで1年6ケ月ぶりに現役復帰を果たす。’93年9月ロサリオのニューウェルズ・オールドボーイズに移籍。10月アルゼンチン代表に復帰。’94年6月W杯米国大会対ナイジェリア戦でW杯通算21試合目の出場となり歴代最多記録に並ぶが、ドーピング検査で5種類の薬物使用が発覚、W杯から追放され、8月国際サッカー連盟(FIFA)により15ケ月間の出場停止処分を受けた。’95年7月ボカ・ジュニアーズと契約、10月ピッチに復帰。’96年8月退団を表明、麻薬中毒の更生施設に入る。’97年再びボカ・ジュニアーズと1年契約、通算5度目の復帰となったが、10月には引退を表明した。2000年10月アルゼンチン1部リーグアトレティコ・アルマグロ監督。2008年11月アルゼンチン代表監督に就任。感情を前面に出してチームを鼓舞し、W杯南アフリカ大会は南米予選を苦しみながらも突破。2010年の本大会では攻撃的サッカーでベスト8進出を果たしたものの、準々決勝でドイツに0-4で惨敗し、大会後退任。2011年5月UAEのアルワサル監督に就任。2012年7月解任。1991年コカイン服用で逮捕されて以降は来日が認められなかったが、2002年W杯日韓共催大会の際に例外的に入国が許可され来日した。
出典 日外アソシエーツ「現代外国人名録2016」現代外国人名録2016について 情報