デンプシー
Jack Dempsey
生没年:1895-1983
アメリカのボクシング選手。本名William Harrison Dempsey。マナッサ(コロラド州)に生まれ,貧しい家庭で育つ。1914年プロボクサーとしてデビュー,生活苦と戦いながら試合を続け,19年ヘビー級世界選手権保持者J.ウィラードに挑戦,3ラウンドでノックアウト勝ちした。以後26年にG.タニーの挑戦を受け,10ラウンドを判定で敗れるまで,7年間ヘビー級の王座を守った。身長187cm,体重84~87kg,執拗な攻撃と強烈なパンチで,〈マナッサの屠殺者〉と呼ばれて人気を呼び,1921年カルパンティエ(フランス)との防衛戦は,入場料売上げ100万ドル突破の新記録を作った。
27年タニーとのリターンマッチで敗れたのを最後に引退を声明したが,31年再びリングに登場,ノンタイトルマッチで32年までの1年間に175人を相手とし,100人をノックアウトしてリング生活を閉じた。
執筆者:川本 信正
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デンプシー
Dempsey, Jack
[生]1895.6.24. コロラド,マナッサ
[没]1983.5.31. ニューヨーク,ニューヨーク
アメリカ合衆国のプロボクサー。本名 William Harrison Dempsey。 1914年にボクシングの世界に入り,1918~19年初期にはノックアウト KO勝ちを重ねた。 1919年世界ヘビー級チャンピオンのジェス・ウィラードに挑戦,第1ラウンドに7度のダウンを奪い,KO勝ちで王座についた。 1926年ジーン・タニーに敗れるまで7年間世界ヘビー級チャンピオンの座を保持した。翌 1927年タニーとのリターンマッチで,第7ラウンドでダウンを奪ったがニュートラルコーナーに行くのを忘れ,レフェリーの注意を受けた。この間のカウント忘れがタニーに勝利をもたらした。この試合は「ロングカウント事件」として有名になった。俊敏な動きと強打を特徴として「拳の英雄」と呼ばれ,1920年代のアメリカのボクシング界で黄金時代を築いた。通算成績は 84戦 62勝 (51KO) 。後年ニューヨークでレストラン経営者として成功を収めた。
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デンプシー
でんぷしー
Jack Dempsey
(1895―1983)
アメリカのプロボクサー。元世界ヘビー級チャンピオン。コロラド州マナッサの貧しい農夫の子として生まれる。子供のころからけんかが強く、16歳ごろから酒場の用心棒をしていたのを、名マネージャーのジャック・カーンズにみいだされた。1919年7月、チャンピオンのジェス・ウィラード(アメリカ)をノックアウトして第9代世界ヘビー級チャンピオンになった。このときの試合があまりにも残酷だったので、以来「マナッサの虐殺者」とよばれた。五度の防衛後、26年9月にジェーン・タニー(アメリカ)に敗れて王座を去った。戦績は81戦60勝(うち49KO)7敗8引分け6無判定。54年に「ボクシング殿堂」入りした。
[石川 輝]
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デンプシー
米国のボクシング選手。コロラド州マナッサ生れ。1914年プロ・デビュー。1919年J.ウィラードを破ってヘビー級世界チャンピオンとなり,1926年G.タニーに敗れるまで7年間王座を防衛して,米国にプロ・ボクシングのブームをまき起こした。身長187cm,体重87kg。強烈なパンチと執拗な攻撃で〈マナッサの屠殺(とさつ)者〉と呼ばれた。
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世界大百科事典(旧版)内のデンプシーの言及
【ボクシング】より
…興行的な思惑からプロフェッショナルの試合ではなかなかこのルールは採用されなかったが,それまで渾然としていたアマチュアの競技者は積極的にこのルールを取り入れ,プロとアマチュアの分化を促進させることになった。プロの世界タイトルマッチでは1884年,アメリカで行われたデンプシーNonpareil Jack Dempsey(アイルランド。1910年代から20年代にかけて活躍した同名のヘビー級チャンピオンとは別人)対フルジェームズGeorge Fulljames(カナダ)のミドル級王座決定戦で,初めて新ルールが採用された。…
※「デンプシー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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