日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドミノ」の意味・わかりやすい解説
ドミノ(Fats Domino)
どみの
Fats Domino
(1928―2017)
アメリカのボーカリスト、ピアニスト。ニュー・オーリンズの黒人街で生まれる。第二次世界大戦後のニュー・オーリンズ・ミュージック、そしてロックン・ロールを彩(いろど)った。本名アントイン・ドミノAntoine Domino。
ニュー・オーリンズは、アメリカの深南部(ディープ・サウス)にあって、ジャズを生んだ港湾都市として一般に知られているが、実際はカリブ海のキューバ音楽やハイチ音楽、ミシシッピ川を南下してきたブルースと、多様なアフリカ系音楽の集積地であった。ジャズの源流の一つには同地のパレード・ミュージック(パレードの第二列目で楽器を演奏し踊りながらついていく人々から生まれたリズムやビートのため、セカンド・ラインともよばれる)があるが、こういった即興的な器楽演奏やブルース、ラテン音楽などが日ごろから混ざり合っているのがニュー・オーリンズ・ミュージックの特色である。ドミノは、1955年から1963年にかけて35曲もヒット・チャートのトップ40にチャート・インさせ、ニュー・オーリンズ筆頭の人気者だった。彼の音楽の背景には、ニュー・オーリンズの混合音楽がもつ豊かさがあり、かつ彼のボーカルは柔らかくロマンチックなたたずまいを備えたものだった。
ドミノは1949年に「ザ・ファット・マン」でデビューし、その後、安定してヒットを重ねた。そして1955年、白人のアイドル・シンガー、パット・ブーンPat Boone(1934― )がドミノのヒット曲「エイント・ザット・ア・シェイム」をカバーし、チャート1位にしたことがきっかけとなり、ファッツ・ドミノという名前も白人社会に知れわたる。以後彼は「ブルーベリー・ヒル」「ウォーキング・トゥ・ニュー・オーリンズ」「ブルー・マンデイ」「アイム・ウォーキング」と数々のヒットを放っていく。
1950年代なかばからしばらくの時期、白人層が認知した新しいシンガーや歌は「ロックン・ロール」としてマーケットへ紹介された。たとえば、メンフィス一帯のブルースやカントリー・ミュージックに根ざしたエルビス・プレスリーも、ビジネスとしてはロックン・ロールであり、ニュー・オーリンズの音楽性を保ち続けるドミノも同じジャンルにいる一人として長く扱われた。それゆえに、ドミノの音楽監督であったデーブ・バーソロミューDave Bartholomew(1918―2019)や、ドミノと同様のスタンスにいたピアニスト、スマイリー・ルイスSmiley Lewis(1913―1966)、同じくプロフェッサー・ロングヘアーProfessor Longhair(1918―1980)といったニュー・オーリンズの黒人ミュージシャンとのつながりが見えにくくなってしまった感は否めない。
1960年代以降、ヒットの数は減ったものの、アルバム『ライブ・イン・ラス・ベガス』(1973)ほか各地でのライブ盤をつぎつぎと発売するなど根強い人気を持続した。ロックン・ロール期のスターの多くがスキャンダルや麻薬問題などで表舞台から去っていったなかで、その後も続くドミノの揺るぎない評価は特筆すべきである。
[藤田 正 2019年7月19日]
ドミノ(遊び)
どみの
domino
ボーンboneという牌(パイ)を使用する遊び。賭(か)け事として行われることが多い。ボーンは、表面が象牙(ぞうげ)か骨材、裏面が黒い木でつくられ、表面に二組のダイスの目が刻んである長方形の牌28個で一組になっている。1800年ごろイタリアで考案された。ボーンは法衣を意味し、昔の僧が白衣の上に黒い頭巾(ずきん)の法衣を用いていたことから、この呼び名が一般になったといわれる。
ドミノの遊び方にはいろいろあるが、普通の遊び方は、28個のボーンを参加者に一定数ずつ配り、まず六と六の目のあるボーンを台の中央に置き、順次に同じ目と目が並ぶように、または並んだ目と目の数の合計が七になるように、縦、横またはT字形に並べていき、自分のボーンを全部出し終わったときをドミノといい、勝ちとなる。現在はアメリカでもっとも盛んに行われ、会員制のクラブもあり、地方によってはスニフsunift(一杯の酒の意)とよんでいる。
[倉茂貞助]