改訂新版 世界大百科事典
「ニューヨークジャーナル」の意味・わかりやすい解説
ニューヨーク・ジャーナル
The New York Journal
アメリカの大衆紙。1882年J.ピュリッツァーの弟アルバートAlbert P.(1851-1909)がニューヨークで1セント紙《モーニング・ジャーナルThe Morning Journal》として創刊,87年20万台に伸びるが,2セントに値上げして失敗。95年W.R.ハーストが18万ドルで買収,《ニューヨーク・ジャーナル》と改題した。ハーストは膨大な資金をつぎ込み,ピュリッツァーの《ワールド》を模倣し同紙を短期間のうちにピュリッツアーを脅かす強大な大衆紙に成長させた。96年に部数ほぼ100万に達した。さらに夕刊紙《イブニング・ジャーナルEvening Journal》を発行,この両紙によって現代大衆紙の原型をつくった。世紀末,この新聞は〈人民のチャンピオン〉と称して鉱山,鉄道,電信などのトラストを攻撃,国有化を主張しさえした。1901年4月,大統領マッキンリーを激しく攻撃していた同紙は暗殺を教唆するかのごとき論説をかかげた。9月大統領が現実に暗殺されると,非難の集中砲火を浴び,あわてたハーストは,〈アメリカ人のためのアメリカの新聞〉というふれこみで,《アメリカン》と改題した。これ以後,ベルサイユ条約,アメリカの国際連盟の加入に強く反対し,F.D.ローズベルトのニューディールに当初は賛成していたが,途中から敵対するメディアの先頭に立った。60年約57万部(日曜版は約77万部)。66年9月,他の2紙と合併して《ワールド・ジャーナル・トリビューンWorld Journal Tribune》として再出発したものの,67年5月停刊となった。
執筆者:香内 三郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
Sponserd by 
世界大百科事典(旧版)内のニューヨークジャーナルの言及
【アメリカ合衆国】より
…1833年デイBenjamin Dayの出した1ペニー新聞《ニューヨーク・サン》がそれであるが,現代型新聞の原型は,19世紀末から20世紀にかけて形成されたといえよう。すなわち,米西戦争(1898)をはさむ期間,[J.ピュリッツァー]の《ワールド》(1883年から所有)と[W.R.ハースト]の《ニューヨーク・ジャーナル》(1895年から所有)との,激烈な競争([イェロー・ジャーナリズム])のなかで,100万単位の部数,広告収入の確保,巨大資本による群小紙・誌の系列化,センセーショナリズムなど,現代新聞の特徴が生み出される。繁栄の1920年代には巨大企業による新聞チェーンの形成と系列化が進み,さらに30年代には,多くの新聞がF.D.ローズベルトのニューディール政策に反対して,党派的に〈偏向〉した報道を行った。…
【イェロー・ジャーナリズム】より
…日本で[赤新聞]といわれるのがほぼ同義。1890年代,巨大企業と化した[ピュリッツァー]の《[ワールド]》紙と,[ハースト]の《[ニューヨーク・ジャーナル]》紙は,常軌を逸した競争を展開する。《ワールド》の日曜版は,8ページの漫画セクションを出し,そのうちの4ページをカラーで印刷していた。…
【ハースト】より
…82年ハーバード大学に入り,学生雑誌《ハーバード・ランプーンHarvard Lampoon》(《ナショナル・ランプーン》の前身)のビジネス・マネージャーとして活躍したが85年退学。87年父が買い取っていた《サンフランシスコ・エグザミナーSan Francisco Examiner》紙の経営・編集にあたり大成功を収め,95年750万ドルの資金をもってニューヨークに進出,《[ニューヨーク・ジャーナル]New York Journal》を買収した。ピュリッツァーの開拓した新聞手法をまね,かつそれを肥大化させ,また高給でスタッフを引き抜くなどして,[イェロー・ジャーナリズム]などと攻撃されながらピュリッツァーと激烈な競争を展開し,現代大衆紙の原型をつくり上げた。…
※「ニューヨークジャーナル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
Sponserd by 