ピュリッツァー(読み)ぴゅりっつぁー(英語表記)Joseph Pulitzer

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ピュリッツァー」の意味・わかりやすい解説

ピュリッツァー
ぴゅりっつぁー
Joseph Pulitzer
(1847―1911)

アメリカの新聞人。ハンガリーに生まれる。1864年、南北戦争の際、北軍の募兵に応じて渡米、1868年、ミズーリ州セントルイスで発行されていたドイツ語紙『ウェストリッヘ・ポスト』の記者となり、1869年にはミズーリ州議員に選ばれ、やがて同紙の経営者となった。その後『ニューヨーク・サン』紙のワシントン通信員を務めたりしたが、1878年つぶれかかっていた『セントルイス・ディスパッチ』紙を買収、これを『セントルイス・ポスト』紙と合併して、『セントルイス・ポストディスパッチ』と改めて、どの党派にも属さず、行政を批判することを旗印として、数年のうちに利益をあげる新聞とした。1883年には『ニューヨーク・ワールド』紙を買収、センセーショナルなニュース報道でたちまちのうちに成功を収めた。1887年には『イブニング・ワールド』紙を創刊し、まもなくニューヨーク最大の部数を誇るようになった。1884年には下院議員に選出されたが、まもなく視力が衰えて、1890年ごろから保養地ヨットで生活することとなる。

 しかし1895年ハーストが『モーニング・ジャーナル』紙を買収して、同じくセンセーショナルな新聞で『ワールド』紙と対抗するようになると、競争激化、ことに互い日曜版で色刷り漫画競争となり、その主役であったイエロー・キッドの名にちなんで、両紙はイエロー・ジャーナリズムという悪名を残すこととなった。1898年アメリカ戦艦メーン号爆沈後の両紙の報道は戦争熱をあおるものだとの非難を浴びた。1903年、ピュリッツァーコロンビア大学に200万ドルを寄付、これをもとにして1912年には同大学に新聞学部がつくられ、記者教育が行われるようになった。また遺言により1917年にピュリッツァー賞が制定された。

[伊藤慎一]

『W・A・スウォンバーグ著、木下秀夫訳『ピュリツァー』(1978・早川書房)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ピュリッツァー」の意味・わかりやすい解説

ピュリッツァー
Pulitzer, Joseph

[生]1847.4.10. マコ
[没]1911.10.29. サウスカロライナ,チャールストン
ハンガリー生れのアメリカの新聞経営者。 1864年南北戦争の北軍義勇兵として渡米。セントルイスでドイツ語新聞"Westliche Post"の記者,さらにニューヨークで『サン』の通信員などを経験したのち,78年夕刊『セントルイス・ディスパッチ』を買収して『ポスト』と合併,『ポスト・ディスパッチ』 Post-Dispatchを創刊。民衆のための社会改良的立場からニュースを取上げることにより,大衆新聞の地歩を築いた。さらに 83年5月 J.グールドから『ニューヨーク・ワールド』を買収,87年 10月には『イブニング・ワールド』 Evening Worldを創刊,92年には朝・夕刊合せて 37万 4000部というニューヨーク第一の新聞に発展させた。一方 W.ハーストの『ニューヨーク・ジャーナル』との間に激しい販売競争を展開し,扇動的な報道の代名詞としてイエロー・ジャーナリズムという言葉を生んだ。「自由の女神」の台座づくり 10万ドル基金キャンペーンでも知られる。晩年は「ワールド」王国の衰退と失明のため不遇であったが,コロンビア大学新聞学科の創設 (1903.6.) や,遺言による「ピュリッツァー賞」の設定 (17) など,新聞界に貢献した。

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