イギリスの美術家。ブリストル生まれ。1986年から89年、ロンドン大学のゴールドスミス・カレッジ芸術科に学ぶ。在学中の88年にロンドン南東部の廃屋となった倉庫で、仲間の学生と作品を展示した「フリーズ」(凍結)というグループ展を組織した。この展覧会や、「近代医学」展、「ギャンブラー」展(ともに1990)が、新しい芸術の登場としてメディアに注目された。ハースト自身、アカデミックなアート・スクールの閉鎖性に批判的で、社会生活のなかのイメージや記号に感心をもち、メディアの利用法にたけ、公的機関に頼らず作品制作の資金を引き出せる新世代の作家たち(サラ・ルーカスSarah Lucas(1962― )、ダグラス・ゴードン、アニャ・ガラッチョAnya Gallaccio(1963― )、リアム・ギリックLiam Gillick(1964― )ら)のスポークスマンとなった。
その後、巨大な黒枠のガラスケースに砂糖、牛の頭、ウジ虫、害虫駆除機を設置し、ハエが孵化してから死ぬまでを作品化した『千年』(1990)が、有力コレクター、チャールズ・サーチCharles Saatchi(1943― )により買い上げられた。91年、ロンドンの空き店舗を借りて自主企画した初個展「愛の内と外」、92年の2回目の個展「鮫」はサーチの援助により行われた。97年にはサーチによりYBA(ヤング・ブリティッシュ・アーティスツ)というキャッチ・フレーズのもとに「センセーション」展が組織された。同展は、ハーストや同世代の作家たちを、ポップ・アートを生んだ60年代のロンドンの活気を引き継ぐ、90年代のロック音楽やサブカルチャーと連動したアート・シーンを担う作家たちとして宣伝し、2年間世界各地を巡回した。
そのほかの作品は、熱帯種の数百の蝶を展示空間に生息させた『愛の内と外』(1991)、防腐液のはいった水槽に動物を入れた「自然史」シリーズがある。同シリーズの『生者の心における死の物理的な不可能性』(1991)では12フィート(約3.6メートル)の死んだ鮫を浮かべるなど、生と死についての関心を、見る者に衝撃を与える生々しい形で表現した。同シリーズはハーストの代表作で、輪切りにした2頭の牛の胴を水槽に背中合わせに設置した『内在するものを受け入れることで得られる救いはどんなものにも存在している』(1996)は、90年代美術を通して最もよく知られたイメージの一つである。
一方、薬の瓶や箱をそのロゴや形によって分類し、キャビネットに整理して、薬局の内装のようなインスタレーションをつくった『薬局』(1991)や、キャンバスに色の点を並べただけのドット・ペインティングなど、ハーストの作品には、ミニマリズムにおける幾何学形の反復を、日常のなかに移した作品もある。『薬局』は99年にテート・ギャラリーの所蔵となった(現在はテート・モダンに展示)。ミニマリズム的な抑制のきいた幾何学的枠組みのなかに、生き物や死んだ動物、たばこの吸い殻など人間の気配のするものを展示することで、ハーストは芸術と生を統合させようとした。95年ターナー賞受賞。
[松井みどり]
『Damien Hirst, Jonathan BarnbrookI Want to Spend the Rest of My Life Everywhere, with Everyone, One to One, Always, Forever, Now (1997, Booth-Clibborn Editions, London)』▽『Jonathan Barnbrook, Damien HirstPictures from the Saatchi Gallery (2001, Harry N. Abrams, New York)』▽『ジェイムズ・ロバーツ著、川出絵里訳「デミアン・ハーストの時代」(『美術手帖』2000年8月号所収・美術出版社)』
アメリカの新聞経営者。サンフランシスコに生まれる。ハーバード大学に学んだが、1887年鉱山王であった父から『サンフランシスコ・エクザミナー』紙の経営を任されたときから新聞界に出ることとなった。1895年にはニューヨークで『ジャーナル』紙を買収、ピュリッツァーの『ワールド』紙を相手に激しい競争を展開、色刷り漫画やセンセーショナルな記事と大見出しで、のちにイエロー・ジャーナリズムとよばれる時代をつくりだした。1897年には両紙の扇動的な記事でスペインとの戦争の原因をつくったと評された。政界進出をも企て、下院議員になっただけに終わったが、全米各地で新聞・通信・出版社を経営することによって「ハースト帝国」といわれる大資産をつくった。第一次世界大戦では参戦に反対、戦後は国際連盟にも反対したが、1927年以来、英語圏諸国の政治協力を唱えるようになった。その新聞チェーンはいまだに勢力が強い。
[伊藤慎一]
アメリカの新聞経営者。1863年サンフランシスコに生まれる。82年ハーバード大学に入り,学生雑誌《ハーバード・ランプーンHarvard Lampoon》(《ナショナル・ランプーン》の前身)のビジネス・マネージャーとして活躍したが85年退学。87年父が買い取っていた《サンフランシスコ・エグザミナーSan Francisco Examiner》紙の経営・編集にあたり大成功を収め,95年750万ドルの資金をもってニューヨークに進出,《ニューヨーク・ジャーナルNew York Journal》を買収した。ピュリッツァーの開拓した新聞手法をまね,かつそれを肥大化させ,また高給でスタッフを引き抜くなどして,イェロー・ジャーナリズムなどと攻撃されながらピュリッツァーと激烈な競争を展開し,現代大衆紙の原型をつくり上げた。1900年,シカゴに夕刊紙《アメリカンAmerican》,04年にはボストンで夕刊紙《アメリカン》を出し,初めて新聞の系列化を実現した。
一方,政治にも野心を抱き,反トラストを掲げて1902年下院議員となり,04年の民主党大会で大統領候補に指名されるよう運動するが失敗,続いてニューヨーク市長,知事選にも立候補するが落選した。22年前後より政界での成功を断念,サンフランシスコ,サンシメオンに中世の城のような邸宅をつくったり,海外旅行で美術品を買いあさるなど浪費を重ねた。傘下の企業は33年前後に最大に達し,日刊紙26,日曜紙17,雑誌13,通信社(INS)1,ラジオ放送局8,映画会社2社を支配した。〈ハースト王国〉はその後衰退したものの,彼の死亡した51年現在で全日刊紙発行部数の9.8%(18紙)を傘下に収めていた。オーソン・ウェルズの監督・主演による映画《市民ケーン》のモデルでもある。
執筆者:香内 三郎
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1863~1951
アメリカの新聞経営者。1890年代に『ニューヨーク・モーニング・ジャーナル』紙の経営に乗り出し,アメリカ‐スペイン戦争では主戦論を展開,大衆向けの刺激的な報道で発行部数を拡大した。その後も他紙を吸収しハースト・チェーンを築く。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…1833年デイBenjamin Dayの出した1ペニー新聞《ニューヨーク・サン》がそれであるが,現代型新聞の原型は,19世紀末から20世紀にかけて形成されたといえよう。すなわち,米西戦争(1898)をはさむ期間,J.ピュリッツァーの《ワールド》(1883年から所有)とW.R.ハーストの《ニューヨーク・ジャーナル》(1895年から所有)との,激烈な競争(イェロー・ジャーナリズム)のなかで,100万単位の部数,広告収入の確保,巨大資本による群小紙・誌の系列化,センセーショナリズムなど,現代新聞の特徴が生み出される。繁栄の1920年代には巨大企業による新聞チェーンの形成と系列化が進み,さらに30年代には,多くの新聞がF.D.ローズベルトのニューディール政策に反対して,党派的に〈偏向〉した報道を行った。…
…日本で赤新聞といわれるのがほぼ同義。1890年代,巨大企業と化したピュリッツァーの《ワールド》紙と,ハーストの《ニューヨーク・ジャーナル》紙は,常軌を逸した競争を展開する。《ワールド》の日曜版は,8ページの漫画セクションを出し,そのうちの4ページをカラーで印刷していた。…
…新人監督としては異例の6本契約を結び,製作に関するすべての権限と自由を保証されてつくったことでも伝説的な映画である。ウェルズは当初,映画化の題材として,J.コンラッドの小説《闇の奥》,イギリスの詩人C.D.ルイスがニコラス・ブレークの名で書いたスパイ・スリラー小説などを考えていたが,結局,脚本家H.J.マンキーウィッツ(1897‐1953)が《ニューヨーク・タイムズ》の記者時代からもっていたアイデアであるという〈新聞王〉W.R.ハースト(1863‐1951)をモデルにした《市民ケーン》に決まった。新聞界の大立者として権力と財力をわがものにしたチャールズ・フォスター・ケーンという男が,〈バラのつぼみ〉という謎めいたことばを残して孤独のうちに死んだところから始まり,それを伝えたニュース映画の記者が〈バラのつぼみ〉の意味をもとめてケーンの生涯を追い,かかわりのあった人物の回想を通してケーンの人物像と生涯の意味が浮かびあがってくる構成。…
…1882年J.ピュリッツァーの弟アルバートAlbert P.(1851‐1909)がニューヨークで1セント紙《モーニング・ジャーナルThe Morning Journal》として創刊,87年20万台に伸びるが,2セントに値上げして失敗。95年W.R.ハーストが18万ドルで買収,《ニューヨーク・ジャーナル》と改題した。ハーストは膨大な資金をつぎ込み,ピュリッツァーの《ワールド》を模倣し同紙を短期間のうちにピュリッツアーを脅かす強大な大衆紙に成長させた。…
…移民として多くの辛酸をなめた彼は素朴にデモクラシーの理念を信じ,社会正義の実現を願っていた。しかし,W.R.ハーストとの競争は,センセーショナリズムを助長し,あらゆるものをニュース化するとともに,広告費で支えられる巨大な新聞産業をつくり上げた。90年に引退を声明,特別製のヨットで療養生活を続けたが,死ぬまで編集スタッフへの方針指示はやめなかった。…
※「ハースト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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