翻訳|billiards
球台(ビリヤード・テーブル)の上で、球をキュー(キュー・スティック)で突いて、競技点数を競う室内競技。撞球(どうきゅう)と訳される。「玉突き」ともいう。
[赤垣 昭]
歴史的には古く、紀元前400年ごろ、ギリシアで戸外スポーツとして、ビリヤードの原型が行われていたといわれている。ビリヤードの起源についてはイギリス起源説、フランス起源説などいろいろあるが、14世紀から15世紀にかけて考案されたものといわれ、最初はクリケットに似た戸外スポーツであったものが室内競技に改良され、ヨーロッパ各地で発達したというのが一致した定説となっている。
近代ビリヤードは、器具の発明・改良に伴って発達した。すなわち、チョーク(キューの先端につける滑り止め)とタップ(キュー・チップ=キューの先端に取り付ける皮)の発明、技術面での進歩により、事実、ビリヤードが19世紀の初めごろから急速に世界各国に広がり発展していった。アメリカへは1820年代にポケット・テーブルが持ち込まれたが、1860年には、それまでポケットゲーム一辺倒だったアメリカで、キャロムゲームが行われるようになった。このころから器具や技術の改良・向上が急速に進み、球台の台盤(スレート)、外枠に取り付けるゴムのクッション、台面を覆うテーブル・クロス(羅紗(らしゃ))、ボールの材質と径寸といったものの改良とともに、クッションに沿ってボールを散らさずに突き進んでいくアメリカン・セリーの研究・完成による技術の進歩は、それまでの単純な競技種目を、さらに高度な技術を要する新種目の設置へと拡大させていった。すなわち、ボークライン競技をはじめ、スリークッション競技、アメリカ式ポケット競技がそれであり、これはさらに、今日行われているフリー競技、ワンクッション競技、あるいは制限をより厳しくしたボークライン競技やアーティスティック競技などへと続いている。
[赤垣 昭]
日本への渡来は、江戸中期に幕府に献上されたといわれているが、一般には1850年代(嘉永(かえい)・安政(あんせい)年間)にオランダ人によって長崎の出島に持ち込まれたのが最初とされている。その後、横浜を経て、東京には1871年(明治4)に最初のビリヤード場ができた。当時は華族や陸・海軍の将官、外務省の高官などの貴顕紳士だけの社交的な競技であった。
大衆のビリヤードとして流行しだしたのは、1913、1914年(大正2、3)ごろからで、山田浩二(こうじ)をはじめ有名選手が輩出した。技術的にも揺籃(ようらん)期の四つ球競技、三つ球競技からボークライン競技へと移り、選手らの渡米による国際交流も盛んになり、1925年春に有名選手を中心とした日本撞球協会が設立された。昭和に入ってからは外国選手の来日などによってますます盛んになり、1937、1938年(昭和12、13)の最盛期には全国のビリヤード場軒数2万軒、台数6万台に上った。1937年に松山金嶺(きんれい)がアメリカから帰国、スリークッションの技術を公開し、1938年に第1回全日本スリークッション選手権大会が開催されて以来、日本の選手権の主流となった。しかし第二次世界大戦による空白はビリヤードの発展を大きく停滞させ、1945年(昭和20)の終戦時には東京、大阪などではわずか数軒という状態だったが、徐々に復活し、ふたたびその勢いを盛り返してきた。1951年には日本ビリヤード協会が設立され、1955年7月、第22回国会で風俗営業取締法から離脱、健全な室内競技として伸展し、1964年には世界ビリヤード連盟(本部ベルギー)に加入、以後、毎年開催されている世界選手権大会に小方浩也(おがたひろや)をはじめ日本の選手が活躍し、1969年と1977年には東京で世界スリークッション選手権大会が開催された。1974年と1984年に小林伸明(のぶあき)、1987年には小森純一がスリークッションの世界チャンピオンになった。また、1998年にタイ・バンコクで行われた第13回アジア競技大会にビリヤードが初めて公式種目として採用され、スリークッション部門で島田暁夫(あきお)が優勝、梅田竜二が2位に入った。ナインボール部門では高橋邦彦が2位に入った。現在、日本のビリヤードは技術的にも世界一流の実力を示すとともに、戦前をしのぐ規模となり、1986年から1987年にかけて、女性を中心とした若者たちの間でブームがおこり、2000年(平成12)現在、全国軒数は4500軒を超すものとみられている。1998年に日本ビリヤード協会は社団法人となった。
[赤垣 昭]
ビリヤードにはいろいろな種目があるが、大別してキャロムゲームcarom game(四つ球、ボークライン、スリークッションなど)、ポケットゲーム(競技)pocket game(ローテーション、ナインボールなど)、およびスヌーカーゲームsonuker gameに分けられる。日本で現在行われているのは、四つ球、スリークッション、ボークライン、ナインボール、ローテーション、スヌーカーなどである。四つ球は赤・白2個ずつのボールでゲームが行われるが、手球(てだま)(白ボール)を突いて、他の2個以上のボール(的球(まとだま))に当たれば得点となる。ビリヤードのあらゆる基本技を包含した種目である。ボークライン競技やスリークッション競技などは、赤1個、白2個の三つ球で行うもので、ボークラインは台面に制限枠を描き、枠内での1回突き、2回突きの制限が課せられる。制限ラインの引き方により、47―1(および2)、71―2などの種類がある。スリークッションは2個の的球に当たる以前に、手球(自分が突く球)が3回以上クッションに触れなければ得点にならない。
ポケット競技には、アメリカ式とイギリス式があるが、アメリカ式はプールともよばれ、白ボール(手球)1個と1~15までの番号をつけたボールで行う。ローテーション、エイトボール、ナインボール、14―1ラック(フォーティーン―ワンラック)などのゲームがある。いずれも白ボールを突き、他のボールをルールに従ってポケットに入れていく。イギリス式のスヌーカーゲームは赤ボール15個とそれぞれ点数の異なるカラーボール5個を用い、白ボール(手球)でポケットに落としていくゲームで、ヨーロッパ、カナダ、東南アジアで盛んに行われている。
[赤垣 昭]
(1)ビリヤード・テーブル 種目により大きさ、高さに違いがある。水平を保ったスレートを木製の台の上に置き、その上を羅紗で覆い、同じように羅紗で覆われたゴムのクッションを取り付けた外枠で仕切る。四つ球とポケットのテーブルは4.5対9フィート(1フィートは30.479センチメートル)、スリークッションテーブルは5対10フィート、スヌーカーテーブルは6対12フィートである。(2)ボール かつては良質の象牙(ぞうげ)でつくられていたが、現在はほとんどがプラスチック製となっている。直径はキャロムゲームの場合61.5ミリメートル、ポケットゲームは57.1ミリメートル、スヌーカーゲームは52.4ミリメートルである。(3)キュー ボールを突く棒のことで、材質は通常カエデなど密度の高い良質の木材を用いる。長さは別に制限はない。重さも各自の好みで制限はないが、通常420~595グラム程度のものが使用されている。キューの先端には皮製のタップが取り付けられている。(4)チョーク 石灰を主材料として固められたもので、タップの滑り止めに使用される。このほかメカニカルブリッジ(通称レスト)がある。
[赤垣 昭]
ビリヤードの基本は正しいフォームを身につけることである。スタンス(足の位置と重心)、フォーム(姿勢)、グリップ(キューの握り)、ブリッジ(キューを支えるためにつくる手の形)、ストローク(キューのしごき)といった一連の基本形の正しい把握のうえで、技術の向上を図るべきである。個々の技術面については先輩やコーチの指導によるほかはないが、まず、ボールのどこを突くかということと、ボールの回転の特性をつかむことが、もっともたいせつである。
[赤垣 昭]
すべてのビリヤード競技は、その種目により多少の特殊な条件が課せられている以外は、サーブ権の選択方法、無効、有効、失格、罰則などのルールはほぼ同じである。キャロムゲームの場合、四つ球は赤・白2個ずつ計4個のボールで行うが、それ以外の種目はすべて赤1個、白2個の計3個のボールで行う(ポケットゲームは別)。白ボールの1個は手球となり、これは競技終了まで変わらない。もし相手の手球を突いた場合は無効となる。手球を間違えないために、かつては白ボールの1個に小さい黒点がはめ込まれていたが、現在では、黒点のある白玉のかわりに黄色のボールを使用している。キャロムゲームの場合、得点は手球を他の2個のボールに当てたときに成立する。1回の得点はすべて1点である。失敗しなければ連続して得点を重ねていく。こうして各自の持ち点(ハンディキャップ)に早く達したほうが勝者となる。持ち点の決め方は、普通5~7イニングスで得られる点数を基準にする。高得点者になると、四つ球、三つ球の場合、1イニングで何千点でも連続して得点を重ねていくことが可能なため、選手権大会や優勝大会などでは、あらかじめ試合点数を定めておき、その点数に早く達したほうが勝者となる。
[赤垣 昭]
『高木正治著『ビリヤード入門』(1969・鶴書房)』▽『赤垣昭著『二色刷図解ビリヤード入門』(1971・金園社)』▽『赤垣昭著『図解コーチビリヤード』(1987・成美堂出版)』▽『赤垣昭監修『ビジュアル版ビリヤード――Technic&rule』(1999・成美堂出版)』
布(ラシャ)を張りめぐらしたビリヤードテーブル(球台)の上に,白と赤,あるいは番号をつけたボールを置き,手球(てだま)(自分が突くボール)を的球(まとだま)に当てて得点を競う室内スポーツ。撞球(どうきゆう),玉突きともいう。限られたスペースのテーブル上で自分のイメージどおりにボールを走らせるためには,幾何学的・力学的判断を要求されるスポーツである。
ビリヤードの歴史は古く,その起源についても,イギリス,フランス,スペイン,中国などさまざまな説がある。16世紀フランスのシャルル9世のころ室内ゲームとして改良されたという説が有力だが,いずれにしても,ビリヤードの原型は,一端を肩にのせ,他の一端を握ってメースという先の曲がった棒で,地上に置いた石を突きころがした戸外スポーツであったといわれ,これをもとにして室内で行えるように考案したというのが定説となっている。その後,イギリスではテーブルにボールの落ちる穴であるポケットをつけたポケットゲームpocket billiardsが発達し,一方フランスを中心とするヨーロッパ大陸においては,ポケットのないテーブルでのキャロムゲームcarom billiardsが研究され,広まっていった。
ビリヤードの進歩には新しい器具の発明と改良が大きな役割を果たした。木材で作られていたテーブルは,大理石を経てスレートへと変わっていった。ボールを突く棒(キューcue)も,短いつえのようなものからまっすぐなものへと改良され,ボールも木製から象牙製のものへと変わっていった。しかし近代ビリヤード史にエポックを画したのはチョーク(白墨)とタップである。キューの先端を丸く削っただけでは,ボールを突くときすべって失敗することが多かったが,19世紀の初めにイギリス人J.カーが,キューの先にチョークをぬってすべりを防ぎ,ボールに横回転つまり〈ひねり〉を加えることを考案した。これは〈魔法の白い粉〉といわれたが,それから約10年後,フランスのマンゴーという人が,キューの先端に弾力性をもたせるとさらに回転が自在に与えられるのではないかと考え,キューの先端に革片をとりつけた。これが現在のタップ(キューティップ)の原型で,これによってボールのもつ特質を最大限に発揮できるようになった。
アメリカへは18世紀のころイギリスの派遣守備隊を通じて紹介され,当初はイギリス式ポケットテーブルだったが,1840年代になるとフランスなどから高度な技術をもった選手が渡米し,ヨーロッパ式のゲーム(三つ球ゲームなど)を広めた。これより少し前にアメリカでは,まったく新しいゲームである四つ球ゲームが行われるようになり,1860年ころには盛んに行われたが,設備や技術の発達にともない,主流は高度な三つ球ゲームへ移っていった。ボールを散らさずクッション(外枠の内側にとりつけたゴム)に沿わせ連続得点を重ねていく,いわゆるアメリカン・セリーなど,高度な技術を駆使する選手が現れ,これを規制するためクッションから一定の距離に線を引いてテーブルの上に枠をつくり,その枠内での突き数を制限するボークラインゲームbalkline gameや,手球が的球に当たるまでに,3回以上クッションに当たらなければ得点にならないスリークッションゲームthree-cushion billiards,それにアメリカ式のポケットゲーム,イギリスを中心に盛んな22個のボールを使用するスヌーカーゲームsnooker gameなどが案出された。
1997年現在,ビリヤードの世界組織は,キャロムゲームの世界ビリヤード連盟Union mondiale de billiard(UMB),ポケットゲームの世界プール協会World Pool Association(WPA),そして世界スヌーカー連合World Snooker Federation(WSF)の三つの団体により92年に設立された世界ビリヤード・スポーツ連合World Confederation of Billiard Sports(WCBS)によって統括されており,それぞれの組織において毎年世界選手権大会が開催されている。各組織には世界50ヵ国以上が加盟している。
日本へビリヤードが入ってきたのは,江戸時代末期の1850年代に長崎出島の外人居留地へ持ち込まれたのが始まりである。その後,横浜の居留地内の〈外人クラブ〉でも行われるようになり,日本人も手をそめるようになった。1871年(明治4)東京では初めてのビリヤード場ができ,日本人の愛好者も増えはじめたが,当時は陸・海軍の将官や外交官といった上流階級の社交的レジャーの域を出ず,ゲームの主流は,欧米ではすでに廃止されていた四つ球であった。鹿鳴館時代を経て92年ころになると,海外から帰国した郷誠之助,玉乃一熊などによって三つ球への移行運動が起こった。1913年には山田浩二がアメリカで開かれたボークラインの世界選手権大会で当時不敗を誇っていたウィリー・ホッペを破り,日本の実力を国際的に認めさせた。18年に門司で第1回東洋三つ球選手権大会が開かれ,25年には日本撞球協会が設立され,こんとんとしていた日本のビリヤード界も,ようやく統一の動きをみせてきた。26年第1回ボークライン選手権大会が開催され,36年には松山金嶺が18年間にわたるアメリカ生活を終え,ボークライン世界選手権第2位の成績をみやげに帰国し,スリークッションゲームを提唱,読売新聞にその技術システムを公開連載した。そして2年後の38年に第1回全日本スリークッション選手権大会が開催された。スリークッションの選手権大会は,その後もメインゲームとして今日に至っている。1937年から38年にかけてが,第2次大戦の前後を通じて最も隆盛を極めた時期で,全国のビリヤード場数2万5000軒,テーブル数10万台といわれた。この時期に不世出の女流選手桂マサ子が台頭してきた。
第2次大戦後のビリヤード界は,アメリカ占領軍のクラブを通じて復活していった。日本撞球協会も復活し,1949年春に東京で第5回全日本スリークッション選手権大会が,再開された。この大会で優勝した小方浩也は,以後いわゆる〈小方時代〉を築くことになる。55年それまで適用を受けていた風俗営業等取締法から除外され,スポーツとして認められた。これより先,1951年には日本撞球協会を日本ビリヤード協会と改称,64年に世界ビリヤード連合に加入し,その後世界プール協会,世界スヌーカー連合にも加入。毎年,各種の世界選手権大会に日本人選手が参加し,小方浩也,小林伸明,小森純一,吉原良男,奥村健,町田正,新井達夫,梅田竜二らが世界チャンピオンになっている。
キャロムゲームとポケットゲーム,およびスヌーカーゲームに大別される。
(1)キャロムゲーム (a)四つ球 日本で最も盛んに行われている種目で,白2個,赤2個のボールで行う。通常はそれぞれの持点(ハンディキャップ)で行うが,大会などでは決められた試合点数で行う。キャロムゲームはすべて1ショット1点で計算する。(b)三つ球 四つ球から赤ボール1個を除いたゲーム。これが本来のフランス式キャロム。(c)ボークライン テーブル上に線を引き,制限枠を設けたゲーム。枠の幅によって,42cm1回突き,2回突き,47cm1回突き,2回突き,72cm2回突きなどの種類がある。(d)ワンクッション 手球が2個の的球に当たるまでに,1回以上クッションに当たらなければ得点にならないゲーム。(e)スリークッション 手球が2個の的球に当たるまでに,3回以上クッションに当たらなければ得点にならないゲーム。
(2)ポケットゲーム 1から15までのボールを,1個の手球で番号順に落としていくローテーションゲームが一般的。そのほかナインボール,エイトボール,14-1(フォーティーン・ワン)ラック,ゴルフ,ワンポケットなど多くの種類がある。
(3)スヌーカーゲーム ビリヤードの中で最も大きなテーブルと最も小さくて軽いボールを使用する。テーブルには六つのポケットがある。赤15個のほか,白,黒,桃色,青,茶,緑,黄の各1個の22個のボールを使用するゲーム。
競技規則は各種目によりそれぞれ異なるが,反則事項(たとえば球ざわり,2度突き,両足を床から離して突く,球違いなど)は,おおむね共通である。
(1)ビリヤードテーブル 5フィート×10フィート(1.5m×3m)の大台のほか,中台,小台,ポケット台および大台よりさらに大きいスヌーカー台などの種類があり,家庭用には大台の半分ほどのものも使われる。(2)キュー ボールを突く長さ140cm前後の棒。キュースティックともいう。(3)ボール 昔は象牙製が用いられていたが,現在はすべてプラスチック製。直径61.5mmを標準とし,ゲームによって異なる。(4)チョーク キュー先にとりつけたタップのすべり止めに使う。(5)メカニカルブリッジ 通称レスト。遠い手球を突くときにキューを乗せる器具。(6)トライアングル ポケットゲームのサーブのとき,ボールを三角形に並べるために用いる枠。
執筆者:赤垣 昭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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