日本大百科全書(ニッポニカ) 「ピッヒラー」の意味・わかりやすい解説
ピッヒラー
ぴっひらー
Walter Pichler
(1936―2012)
オーストリアの彫刻家、建築家。イタリア領の南チロールに生まれる。1955年インスブルック職業訓練校を卒業し、1959年までウィーン応用芸術大学においてグラフィック・デザインを学んだ。1960年渡仏し、1962年より建築家ハンス・ホラインと共同する。
1963年ホラインと共同した建築展(ウィーン)では、建築とアートの間に位置する、環境や都市へのメッセージをもったオブジェを出品し評判となる。この展覧会はその後ニューヨーク、メキシコを巡回し、世界的な関心を集めた。
1965年、パリ・ビエンナーレにも同じくホラインと参加し、「最小限環境ユニット」の計画案を提出。電話ボックスに組み込まれたミニマルなこの住居ユニットは、それまでの建築の概念を再検討する契機を内包していた。と同時に、その後のピッヒラーの出発点ともなった作品であった。
1967年MoMA(ニューヨーク近代美術館)で開催された「ビジョナリー・アーキテクチャー」展にはホライン、レイモンド・アブラハムRaimund Abraham(1933―2010)とともに幻想的建築のドローイングを出展。ドクメンタⅣ(1968、カッセル)にポータブル・リビングルーム(携帯用居間)とテレビ・ヘルメットを出展し、従来からの建築の概念を覆し、「プラグ・イン」する環境装置としての建築をリアルなオブジェとして示した。これはプラスチック製のカプセル型のヘルメットで、生命維持と情報供給のための装置であった。ピッヒラーにおいて、人間や生活を覆う建築はもはや空間をも必要としなくなったわけである。これらのオブジェのもつリアリティは、同じくピッヒラーの作品、ニューマチック(pneumatic、空気膜構造)の部屋「グロッサー・ラウム」(1966)などとともに、同じようなビジョンを模索していたアーキグラムやスーパースタジオなど世界中の前衛的な建築家グループに、強烈なインパクトを与えたのである。またピッヒラーのオブジェのもつ質感やドローイングに表現された感性は磯崎新(あらた)、モーフォシス、ピーター・ウィルソン、高松伸などの建築家に間接的な影響を与えることになった。そのほかの活動としては、1963年にはグラフィック・デザイナーとして書籍のデザインを手がけ、1965~1967年にはホライン、グスタフ・パイヒルGustav Peichl(1928― )らと建築雑誌『バウ』Bauの編集・デザインを行った。また、1966年アルミ製椅子ギャラクシーを制作。
ピッヒラーはホラインの共同者として建築界にも広く知られたが、ホラインがやがて実作の建築家に転身したのとは対照的に、建築家として活動することを拒否し、ドローイングと彫刻をつくる活動に専念した。1972年以降、ブルゲンラント州サンクト・マルティンの農園をアトリエとして、数々の展覧会へのオブジェの出品と創作活動を続けた。しかし、1998年にウィーンのジェネラリ財団で開催された展覧会「プロトタイプ1966―1969」展で、ふたたび1960年代のピッヒラーの作品が脚光を浴びることになった。
[鈴木 明]
『Walter Pichler; Drawings, Sculpture, Buildings (1993, Princeton Architectural Press, New York)』